おたじ 〜Raod of Otaku/OTAku oyaJI is No Dead!〜
フィルムレビュー
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「カレカノ但しアンノ抜き」ちゅう
ある種最強の布陣で作られたOVA。
ストーリーその他は説明のしようがないので
ここで確認ぷりーづ。
まあ、
大方の期待を裏切って、よくできてはいる。構成上、中ほどのマンガ風のシークェンスが冗長に感じられる以外は破綻もなく、アニメーションとしての動きも水準以上で、まあまあ楽しめるアニメである。ただし
アニメファンとかオタク向けのアニメではない。
萌えキャラが出てこないから、とかそういう理由ではない
(出てこないが)。ひとことで言うと
「ツッコミどころがない」のだ。なんちゅーか、
夕べ見た夢の話を友人から聞かされている、という感覚が一番近いと思う。
このアニメ、ストーリー、キャラクター、演出、全てが完全に
クリエイターの俺様世界で構成されていて、こっちは「はあ」と相槌を打つしかない。それでも商業作品として成立しているレベルになっているのがスタッフの力量を示してはいるが、内容を人に語る気分にもなれない。
基本的に、オタクとかアニメファンっていうのは、あるコンテンツの内容を語る事で、メンタリティを成立させているイキモノだから「語れない作品」っていうのは基本的にキツいだろう。
作り手のオタク度が最高に強まった結果、まるでオタク受けしないコンテンツが生成されたちゅうのはまたパラドキシカルな話ではあるよなあ。ま、
TINAMIXあたりじゃ、そのうち「スタイルがどーの」とか語り始めるんだろうがな。
かねてから評判だったアメリカ製のアニメ映画で、冷戦まっただ中の1957年を舞台に宇宙から訪れた15メートルの「鉄巨人」と少年の心の交流の物語である。
アメリカで昨年公開されて大コケ。日本公開が危ぶまれていたのだが、試写を見た業界人の尽力で何とかワーナーマイカルのみで公開とあいなったといういわくつきのフィルムである。
つーわけで県境を越えて見に行ってきました。ちなみに初日(土曜日)の2回目なのに観客4人でした。この分だと公開終了まで100人行かないんじゃないか福島マイカル。それはいいとして(よくねえ)、映画そのものはどうかと言うと、大ゴケもさもありなん、である。
誤解なきようにいっておくと、フィルムとしての完成度は素晴らしいの一言につきる。脚本は王道ながら泣かせのツボをよく押さえた脚本、シネスコサイズの画面を生かした緻密な画面設計とダイナミックな演出、劇場に見に行ける人は是非行く事をオススメする。
問題は、この映画やたらと地味なのである。3Dアニメを起こし、それをセルに合成したジャイアントの動きや、実写映画(日本製の怪獣映画もだいぶ”入ってる”感じではある)を多分に意識した画面構成など、手間隙はすげえかかってるのだが、いかんせんそれがあまりにも画面の効果としてフィルムに溶けこんでしまっていて、一見すると「昔のまんが」にしか見えないのだ。これ、同時期にトイストーリー2とかと並べられたらそりゃダメっしょ。だから逆にクロウト受けしたんだろうけどなあ。6月にはDVDも出るんで、それでもいいから見るべし。
ところで、これずっと妙なデジャヴュを感じてたんだが、ふと思い当たった。
「あさりよしとおの漫画みたい」
なんである。
ジャイアントってワッハマンみたいだし。
いわゆる「平成ウルトラマン」の1作目を映画化したもんである。
一行知識:
ウルトラマン30年史でTVと同じウルトラマンが単独で主役を張る劇場用オリジナル映画は初めて。
っつートリヴィアな話題をはさみつつ映画のストーリーを紹介すると、結婚を控えた恋人同士(V6の長野博と吉本多香美)の前に男の昔の恋人(芳本美代子)が現われて復縁を迫り、かなわぬと知ると殺そうとするというどこのフジテレビのドラマかと思うような内容だが全部マジです。まあ、この男と別れた女がウルトラマンで、3万年越しの因縁なんだがな。
実際は、これに絡んで平成ウルトラマンのテーマのひとつであった「人の中にある光と闇」を掘り下げてるという一見さんとコドモお断りなディープなシナリオではある。
これファンが見ると実に「燃える」部分は多い。しかしその反面、客観的に見ると子供向けなのか大人向けなのかが判然としないヌエ的な部分や、単独の映画としては明らかに説明不足、といった欠点も目立つ。やはり純粋なファンムービーととらえるべきかも知れない。
ウルトラマンのキモである特撮の見せ場はかなり多い。これには劇場にいたお子様たちもそれなりに納得して見ていたようである。
エフェクト関係では人間大の怪獣シビトゾイガー関係が圧巻の一言に尽きる。
特にダイゴが見る破滅のイメージ映像や、クライマックスの巨大戦艦アートデッセイ号襲撃のシークェンスで描かれる、数万のゾイガーが群れをなして飛来するシーンは、ほぼフルCGながら息を呑む迫力。特撮ファンはこのシーンのためだけに劇場に足を運んでもいいくらいだ。
一行知識:
このCGエフェクトを担当した増尾隆幸氏はあのMSVのデザインやガンプラの箱絵などを手がけた事もある日本のSFイラストの草分けの一人。
それはそれとしてもラストのルルイエの遺跡が崩壊・海没するシーンの迫力など円谷プロの看板に恥じないデキ。
最後に、地味だが、この映画で印象的だった部分をひとつ。
それは中学生役はいい気になりすぎだぞ山田まりやとか、化粧の濃さまで映さなくてもいいのでは高木澪とかそーゆー事ではなくて、主題歌にTV放映時の「Take Me Higher!」をそのまま使用しているという点だ。内容から言っても「愛がルララララ〜〜〜」みたいなコジャレた新主題歌が作られてもいいようなものなのだが、それをやらないのはスタッフがこのコンテンツをいかに大切にしてるかという事でもあると思う。言いたかないが見習え東宝。
しかしガングロのウルトラマンはなあ・・・。
「おじゃ魔女どれみ」が大団円を迎えた。いや実にあらまほしき魔法少女モノであった。というか、「帰ってきた魔法少女」であった。
実は某動画王の「スーパー魔女っ子大戦」にいきがかりで原稿を掲載していただいた(笑)身としてはここは一発語らねばなるまい。
いわゆる「魔法少女モノ」を整理すると、「東映系」と「ぴえろ系」の2系列に大きく分かれる。これに、変格モノとし「美少女戦士セーラームーン」に始まる「変身ヒロイン系」が加わる。
「東映系」は、もはや古典として相応しい「魔法使いサリー」「ひみつのアッコちゃん」を始めとする諸作品で作品の設定上の特色として「魔法が万能であるかわりにペナルティがキつい」いうことが挙げられる。
対して「ぴえろ系」は(ぴえろ制作ではないが)「魔法のプリンセス ミンキーモモ」から始まり「魔法の天使 クリーミィマミ」を実質的な起点として「ファンシーララ」にまで至る諸作品で、こちらは「魔法はせいぜい変身(しかも1パターンのみの場合も多い)程度。しかしペナルティは少ない」という設定になっていることが多い。
「ペナルティ」を、ちょい詳しく言うと、東映系の諸作の場合は魔法使いであることが周囲にバレた場合、日常の生活を送れなくなってしまう場合が多い(「魔法使いサリー」が典型)のに対し、ぴえろ系は魔法は使えなくなるが、それはいつもの日常に戻るだけ(「ファンシーララ」あたりが典型)の場合が多い、という事である。
また、ヒロインである魔法少女のキャラクター付けも、東映系が非常にストイックな優等生であるのに対し、ぴえろ系はどちらかというとお調子者で、「アコガレのおにーさん」の前ではへろへろになってしまう、という風にちょっとダメ入ってる場合が多い。これは、魔法の扱いと無縁ではなく、東映系の「魔法は万能」という世界では、作劇上、主人公には強い抑制心が必要だからだ。
こうやってみて行くと実は「美少女戦士 セーラームーン」から「カードキャプターさくら」に連なる「変身ヒロインもの」は、系統樹としてはこの「ぴえろ系」の延長線上、というか明らかに進化形であるといえる。
「ぴえろ系」がこのような形で進化したのに対し、「東映系」の魔法少女は80年代の前半で一度途絶えてしまう。それは、前述したような主人公に対する縛り(いやそういう意味でなく)がどうしても作品を説教臭くしてしまい、時代に合わなくなってしまったからだ。「魔法少女ララベル」なんか番組の最後で「故事成語による人生訓」をブチかましてくれたもんなあ。その後サリーやアッコちゃんのリメイクなどはあったが、全体としては「死んだ」ジャンルであった。
さて、「おじゃ魔女どれみ」だ(やっと戻った)。
このアニメが「変身ヒロインもの」ヴァリエーションとして企画されたことは、キャラクターのシフトがセーラームーンにおけるセーラー戦士のシフトの変形である事や「チーム」を意識したコスチュームのデザイン等から見ても明らかである。しかし、「魔女であることがバレた場合、カエルになってしまう」という強烈なペナルティは、この作品世界が久しく見られなかった「東映系」を踏襲したものであることを示していた。
そして迎えた最終回、苦労して手に入れた魔女の力を失っても、おんぷを眠りから覚まそうとする3人のおじゃ魔女たちの姿は、友人たちとの別れをいとわず学校の火事を魔法で消し止めた魔法使いサリーと、完全に重なってくる。
こうして見ると「おじゃ魔女どれみ」は、「サリー」から始まって枝分かれした女児向けキャラクターアニメの集大成であり、新しいサイクルの始まりなのであると言って差しつかえないのではないか。
90年代最後半の児童向けキャラクターコンテンツの特色として、「ウルトラマンティガ」、「燃えろ!ロボコン」、「仮面ライダークウガ」と言ったような古典のリファインが目立つ。「どれみ」も実はそれに列せられる一本である、といえるだろう。これにはもちろん作り手が完全にテレビ第一世代にシフトした、ということもあるだろうが「子供なんか昔から変わっちゃいない」ということでもあるかもしれない。
ってな訳で新作「#」始まったんだけど、中CMに「ルリ麻雀」入れるのやめれ。あんまし「ソッチ向け」を全面に出してほしくないよなあ。ほんとのところ。
いや、見てる人間が言うのもなんだと思うんだけどさあ、オタクの本質は「密かに愛でる」ことにあると思うんだがどんなもんかなあ。