だ☆めーづ
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おたじ 〜Raod of Otaku/OTAku oyaJI is No Dead!〜
フィルムレビュー

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アニメ版「封神演義」(5.25/6.12)


ジャンプの封神演義がやっとアニメになるようである。やぱし「原作 講談社」を表示したくなかったつうのが遅れのもっぱら原因との噂だが(笑)TV東京の朝では全国で血涙を流すファンが多そうではある。
とりあえずアニメ版の望ちゃん美少年(でも70歳(笑)趙公明の声は広川太一郎しかおらんと思うがどうか。
ジャンプ版は大スプラッタである原作小説のアレンジとしては上手くいってると思うが、それでもTVコードにひっかかりそうな描写が結構あるんで、そのへんどうするつもりなのかなあ。特に伯邑孝の肉餅エピソードなんかは物語の重要なキーポイントなだけに、どうするのかお手並み拝見つうところですね。仙台で見られればだけど(涙)。
ところでこいつの(C)に「封神プロジェクト1999」とあるんですが、スタッフがカンヅメになってるスタジオが「封神台」と呼ばれるのに100人民元つうかアニメーター365人殺しますか。


OVA「ときめきメモリアル」を巡って(6.19)


〜ストーリー紹介〜
(前略)しかし、彼女(詩織)には男性を好きになるという気持ちがよくわからない。卒業まであと五ヶ月と言うとき、彼女のもとに一本の電話が・・・。

以上、パンフより抜粋。以下妄想

「もしもし・・・館林です・・・」
そう。伝説には「女の子から告白されて誕生したカップル」と指定されているだけで、どこにも「男女のカップル」とは指定されていなかったのだ。

きーらーめく、ふーたりーのーときー

・・・・・神様、オレの心はいつからこんなに汚れてしまいましたか?

つーネタはともかくだ(を、「ときメモ」のOVAがリリースされた。実はまだ未見なのだが周囲のファンの評判はおおむね良好だ。
ただ「何で今更」感がぬぐえないのも確かなんだけど、逆に言うと「今だから」なのでもある。

商品的な旬、という意味からすると、「藤崎詩織アイドルデビュー」の頃がベストだったのかもしれないが、果たしてその頃に出たら、ファンの反応はどうだったろうか。恐らく内容いかんに関わらず、コアなファン層からは冷笑あるいは非難を持って迎えられたのではないか。実写版の映画に至っては、客層として想定していたであろう本編のファンに完璧にシカトされていた事を考えればあながち外れた想像ではないだろう。

ゲームを二次著作化する場合、最も難しいのは、一番の顧客層である熱心なプレイヤーの「俺世界」を侵さないようにして、なおかつ作品として成立させる、という一点だろう。

ゲームを知らないスタッフがよく勘違いするのは、ゲームというのは基本的に「能動的な世界の体験」であって、他のメディアのように「物語の受容」をするものではないということだ。


アニメや小説には、基本的にクリエイターが与えたたったひとつの「物語」があるだけだが、ゲームにはプレイヤーの数だけの「物語」がある。大多数のプレイヤーの「俺物語」と相容れない物語を提供しても、ファンには「そんなのは俺の知ってるXXじゃない」といわれるだけだ。
だから、特に「ときメモ」のように登場キャラとの交流がメインになるような作品の場合、新しい「物語」を付加するには細心の注意が必要なのだ。

「詩織アイドル化」が一部のファンの怒りを買ったのは、あまりにも無神経にこの「俺物語」を踏みにじる行為だったからだ。「主人公」としてゲーム世界を体験しているプレイヤーにとっての詩織は「幼馴染」であり「アイドルタレント」ではないのだ。

この事を考えれば「旅立ちの詩」で、プレイヤー側が「俺世界」に一応の決着をつけ、ある程度クールダウンしたこの時期にリリース、というのは間違いではないだろうと思う。それも本編スタッフがちゃんと「落とし前」をつけてくれたおかげだけど。

ま、実際のところは「桃天使」も「みつナイ」も大ゴケしたあげくに「ときメモ2」までの版権用のタマが無くなっただけだろーけどさ。DDRじゃトレカも抱き枕も出せねえもんな。

Gの憂鬱(5.25)


あーまたゴジラね。はいはい。俺基本的に東宝特撮好きなんだけどさあ、今回は見に行くかどうかすごい迷っている。
いやね、内容がショボいとかそんなのはどうでもいいのよ。俺ら位の怪獣マニアにとって、東宝特撮って馬場さんのプロレスみたいなもんだから。いやね、俺もう東宝にこれ以上怪獣映画で興行成績上げさせちゃいかんのじゃないか、と思い始めてるのよ。
今の東宝怪獣映画に足りないものは何か、と言ったら「こだわり」だろう。こないだ公開されたモスラ3ね。これのクライマックス、鎧モスラの羽化シーン。本物の蝶の羽化をモチーフにして、透明の羽がだんだんと色づいていく、っていう演出はすげえいいセンスしてると思うんだけど、いかんせんこのシーン、合成のガタつきがモロ見え。CG使ってんだから、いくらでも修正きくはずなんだけどねえ。この他にも、平成モスラは全部こんな調子で、技術とか以前に、仕上げが粗雑過ぎ。一作目なんか、フェアリーモスラの飛行シーンで、マスクがちゃんと抜けていなフィルムを堂々と使っているという、お粗末な特撮ショットが興をめりめり殺いでくれた。

これって、本来ラッシュの時点で本来リテイク出さなきゃいけないもんだろう。けど、それがそのままになってる、というのは技術的にどうの、と言うより「こんなもんでいいや」という妥協以外の何物でもない。

確かに、実質9ヶ月位でゴジラ映画クラスをポストプロ、プリプロを含めて撮るのは厳しい。しかし、同じ根から別れたはずの円谷プロが数ヶ月で撮った「ウルトラマンティガ&ダイナ&ウルトラマンガイア」はどうか。実はこの映画のポストプロ作業に入ったのは、同日公開の「ガメラ3」の完成後というタイトなスケジュールだったらしい。にも関わらず、この映画の特撮は素晴らしかった。
フルCGの関節可動ロボと着ぐるみ怪獣の絡みから、3体にモーフィングで分裂する怪獣、宇宙、市街地、そして海底と舞台を変えてスピーディーに展開する怪獣対3人ウルトラマンの格闘など、めくるめくイメージに溢れた快作だった。無論、合成のガタついた画面などはない。
無論、ウルトラマンはよく見るとセットはチープだし、モーフィングの素材は止め絵だったりと金と時間はモスラ以上に足りないのがもろわかりなのだが、それを感じさせない 映像に仕上がっているのは、センスとそしてこだわりの賜物だろう。要するに、見せ方なのだ。どういう絵を見せたいのか、というビジョンをはっきりと持ち、それに最も適した技法を(予算面も含めて)選択し、そしてそれをきっちりと撮りきる。こういった当たり前の事が残念ながら東宝の怪獣映画からは感じられない。あるのはただただ「お仕事」をこなしている姿勢だけである。

今、東宝の怪獣映画がやるべきことは「作らない」ことだ。ルーティンワークに堕した現場からは何も生まれない。その事を平成の東宝特撮は身をもって示した。もうひとつの平成Gが身をもって示したこととは好対照としか言えない形で。

東宝の製作陣は先達の業績をきちんと振り返り、どうすればベストな映像をファンや観客に提供できるかをじっくりと考えるべきだ。それが、日本で最も高名なキャラクターを有するコンテンツ・プロバイダとしての使命だろう。
それができないようなプロバイダには、ファンは厳然と「No」を言うべき時なのかもしれない。

高畑勲さん(5.12)


11日付の朝日新聞に、アニメ監督の高幡勲さんのインタビューが載ってたのだが、その中で気になる事がひとつ。
「子供がアニメで夢を見るのはいいが、大人になったら離れるのが健全」という意味の言葉を言っていた。
氏はまた「リアルな表現はアニメにはいらない。それなら実写映画を見るべき」とも言っている。まあ、この手のインタビューは得てして構成者が、インタビューイの発言を恣意的に書いてしまうので、氏がどういう文脈でこれを言ったのか、本当のところはわからないのだが、その辺を差し引いても、高畑さんもつまんないジジイになったなあ、と思う。
ここで、氏がかつて手がけた傑作テレビシリーズ「赤毛のアン」を回想してみよう。
このアニメは一応「名作劇場」の枠で放映されていた作品だが、映像表現、台詞回しなどどう見ても、「いわゆる子供」ではなく「赤毛のアン」の本来の読者たるミドルティーン以上を対象にしていた。だいたいあの山田栄子の頓狂な声が史上最強にエキセントリックだった、アン・シャーリィを「いわゆる子供」が受け入れていたとはとうてい思えない。
作画の面でも、極力アニメーション的なデフォルメを排し、また劇中の時制にあわせて、キャラクターがきちんと少しづつ歳を取っていく(最後半は毎週のようにキャラ設定が変更になっていた)という極めて手間がかかるが「リアル」な表現がなされており、当時見ていた私なんかは「アニメでもこんなことが可能なのか」と感動した覚えがある。

この高幡勲さんや、宮崎駿といった人たちは、東映動画のごく初期からアニメーション映画に携わって来た人たちで、「アニメ」ではなく「まんが映画」の人たちだ。
まんが映画は確かに子供向けの映像メディアだった。しかしそれは、アニメーションという表現技法が、たまたま幼児向けの表現として最適だったというだけで、アニメーションが必ずしも「いわゆる子供」向けの表現しかできない技法である、ということではない。

日本のアニメの功罪は色んな角度から語られるべきであろうと思うが、少なくともディズニーが幼児向けという1カテゴリに封じ込めてしまった、アニメーションという表現技法の可能性を引き出した、という点では一定の評価をする必要があると思う。その「功」の一端を担っていたはずの高畑氏からこういう言葉を聞くのは寂しい。
確かに「テレビまんが」として、あるべき姿には進化しなかったかも知れない。しかし、その状況をにべもなく全否定してしまうというのは、自分の感性が置いていかれてるのかもしれない、という事を疑って見もしないという点で、もはや創造力が弾力を失っている事を示していないか。それは、氏がもはや、クリエイターとしては「終ってしまった」という事である。

夏公開の「となりの山田くん」がどのような作品なのかはまだわからない。この一文が単なるタワゴトである事を切に祈る。



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