おたじ 〜Raod of Otaku/OTAku oyaJI is No Dead!〜
日々雑事
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最近のPCやネット回りの雑誌見てるとブロードバンドとか常時接続とかの話題満載である。来年あたりにASDLが回って来るかどーかつー東北の郡部の居住者から言わせてもらえばそんな回線はスッパいに違いないちゅーところではあるんだが、これががウチあたりまで来ないことにはインフラとして整備されたことにはならないんで、まあオヤジ週刊誌の『IT革命なんかマヤカシだ史観』記事を読んで精神的な安寧を得ているような人々は一安心してていいと思う、ってそんな人がここ読んでるとは思えないんで言わせてもらうがそんな記事書いたり読んだりして溜飲を下げてる時点で既に終わってるんじゃねえのか。
要はこーいう雑誌のスタンスってのは基本的に『オレ達が作り上げた世の中は何も悪くねえ。悪いのはその後の若い連中が作り上げた俺達には理解できねえモノだ』って事だからな。もう後ろ向きの観点極まれりってとこか。
ってな話はとりあえず前振りとしておいといて、だ。こういったITモノのネガテイブな話で必ず出てくるのは「バーチャルな人間関係」とかいう単語である。要はネットは対面メディアじゃねえから云々、と言った文脈で若者のコミニュケーション不全に繋げるのが社会派コラムの定番コンボである。けど、このコンボが通じなくなる日も実はけっこう近いんじゃないのかね。
この批判が前提としているのは、実は人間どうしのコミニュケーションにおいての情報量の多寡という評価基準である。要は『知らぬ同志がで小皿叩いてちゃんちきオケサ』>『対面でビジネストーク』>『電話』>『メール』>『のろし』>『テレパシー』つーことになるか(ちょっと違うような気もするが)。
だが、そもそも人間は他人とコミニュケートする時、自分の情報を全部与えるわけじゃなかろう。例えば職場の人間に自分の家庭内の事情を全部話すのか?その逆に家族に職場であった事を全部話すか?そんな事はないだろ。
それと一緒で、実は『若いヤツはコミニュケーション不全』とかホザく毎日顔を合わせるオヤジ上司よりも顔も知らないメル友に、自分のモロモロをいっぱい教えてる若い部下なんてのもいるはずだ。さてこの場合、どっちがバーチャルなんだろうねえ。
結局、人間は自分が知らせたい事を知らせたい人にだけ伝えるものなんでないのか。そーいう事からいくと、小皿叩いてチャンチキおけさだろうがメルトモニナロウだけのきゃらメールだろうが、質としては等価なんでないのか。
で、だ。今現在のデジタルなコミニュケーションがこーいう意味で低く見られるのは、ひとえに与え得る情報量の少なさであろう。
何かよくわかんないけど、あんな文字列で相手の何がわかるもんかよ、みたいな。
だが、それって単に今の技術が運べる情報が少ない、ってだけのな問題であって、デジタルコミニュケーションの本質的な欠陥でもなんでもない。
デジタルデータ化の本質というのは、全ての情報を01のビット列に変換し、一元的に流通させる事が可能、という一点にある。理論上は人間のDNA情報みたいな当人が全然意識しない情報も伝える事が可能だし、事によれば脳電流をトレースして感情の動きを伝える、なんてのが可能になってくるはずなのだ。
こんなのはまあ遠い未来のSFとしても、おそらく数年と待たずに、携帯電話でリアルタイム映像を送受信できるようになるはずで、そうなった時、今、半可通の一言居士がしたり顔で言う所の『ケータイ=コミニュケーション不全な若者のツール』といった物言いは通じなくなる。
また、常時接続&ブロードバンド環境が完全なインフラになってしまえば、現在、既に存在するTV会議システムを応用したTV電話システムも各家庭に入っていくことだろう。そうなった時、メールやチャットも含めたコミニュケーションのあり方もかなり変わってくる。
誰にどんな情報を与えるか、という事は完全に個人に委ねられるからだ。『文字メールだけでいいや』と動画付きで話したい人との差な。そうなった時に、今現在のツールの特質に全部おっかぶせるよーなコミニュケーション論は成立しなくなる。さて、次の『オレたちが作った世の中は何も悪くねえ』という言い訳のネタにされるのは何だろうな。
とりあえず、人の振り見て何とやら。とりあえず世の中に対する責任の取り方を考えにゃいかん年が近づいて来てる身としては、せめてネット上とかオタクな事はいろいろとやらないかんのかな、とも思う。
そのためにもとっととスっぱい回線を通してほしいんだがなあ。(結局ソレか)。
何やら今週号のジャンプを読んだら、中ほどに漫画家連名で、要約すると『BOOK OFF』なんかの新古本屋やマンガ喫茶に本を置かれるとマンガ家商売上がったりだから何とかすれ、という趣旨の提言(これ)が、見開きでどかんと載っていてまあそれはそれでけっこーなことで、ってなもんだが、ゲームのNO Resaleの話ん時もそうだったんだけど、ひとつだけ問いたいのは、この手の話にユーザーはどこにいるのよ、ちゅー一点である。
確かに、新古本屋とかマンガ喫茶で業界が不利益をこうむる事は否定しない。だが、現行の本の流通はユーザーがかなりの不利益をこうむっているシステムであるつー事はどーフォローしてくれるのかね。
30何年になんなんとするマンガ読みのキャリアからいわしてもらうとマンガ本(というか本全般なんだがな)、ていうのは新刊で出たときに買い逃してしまうと、その後恐ろしく入手が困難になる。長編の中の一巻を買い逃してたりするとその後探すのがエラい大変である、というのは誰しも経験したことがあると思う。マンガというのは実にカゲロウとかセミなみにライフサイクルの短い商品なのである。
実際に今、あるマンガを一気に入手して読みたいと思った時に、一番確実なのはBOOK OFFかマンガ喫茶である、という現実をどうしてくれるのか。確かに書き手の著作権というのは守られるべきものだが、それ以前に客の『コンテンツにアクセスする権利』をどうやって守ってくれるのか。
そもそも、コミック文化の保護云々を言うのであれば、受け手がコンテンツに容易にアクセスできない事のほうをまず憂うべきじゃないのかね。
いやね、別にマンガ家だって食わなきゃいけないんだから、自分たちの減収を気にかけるのは当然で、それについて異論を差し挟む気は無い。けど、それを主張するのに文化だの保護だのという権威にまみれた物言いをつける図、というのは大衆娯楽の担い手としてはあまりにも浅ましく、見苦しいと思う。こういった精神的な成金趣味こそ恥じるべきだろう。
ところでこれの連名って、ある日突然ファックスが流れてきてそれに意思表示をしないと自動的に承認とみなされる、つーシステムだったつー噂。
なんつーか、極まれリ。
ま、最終回騒ぎでクウガネタもいろいろとかすまびしいみたいだが、この手の感想やフレームでよく見かけるのが「子供番組」というタームである。
この言葉、あるコンテンツの致命的な欠点を突かれた肯定派には「子供番組だからしかたがない」という文脈で、一方、自分の読解力では難癖をつけられなくなった否定派には「子供番組としちゃ失格」ってな具合に、とっても便利な用語として使われる事が多い。
でもさあ、それって変じゃねえか?
この文脈で出てくる「子供番組」、ってのは要は『この番組を子供どう捉えるのか』っちゅーオトナ側がめぐらす考えであって、フィルムの出来不出来はおろか、見てる子供達が実際どうよ、って事ですらない。ほんとに子供がどう捉えてるかなんてのは多分当の本人しかわからない。脇で見てるオトナが何言っても子供には単なるコゴトでしかないのは自分たちが20年とか30年とか前に経験済みじゃないのかね。
つーことで、「子供番組」というコトダマは、実は意味の無い不毛のタームでしかない。けど「子供の教育」っつー日本人にとっての錦の御旗を掲げてるから始末が悪い。結局、どんなフィルム論もこの一言が出た時点で論旨があさっての方を向いて、無人の荒野を突っ走る事になる。困ったことだ。
いやね「子供番組」そのものは語られるべきことであるとは思う。けど、フィルムとしてのデキと一種のカルチャーとしての「子供番組」ってのは次元の違う話であって、それをごっちゃにして語ちゃあいかんだろ、とか思うんだがなあ。ま、便利な言葉ではあるがね。
前どっかで読んだ「子供とテレビ」の話で「アンパンマン」は最後に相手をぶん殴ってケリをつけるから子供に見せたくねえ、って意見があってたまげたことがある。けど、「子供番組としてのクウガ」がどーのちゅうんだったら、ここまで言い切る覚悟で語ってほしいもんである。
じゃなきゃ、
単なる逃げだぜ。