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ぼんやりとした私を乗せて、バスは終点である駅前に到着した。暖房の効いた車内から外
に出ると、街の冷気が私を包み込む。眼の下がちょっとだけ余計に冷たかった。
私は駅前通りのデパートの食材売場をいくつか回ってみるつもりだった。いろいろな事
が私の中で、まだぐるぐるしていたが、こういう時は買物でもして気分を変えるのが一番
なのだ。
祭を彩るイルミネーションや飾り付けが施された華やかな駅前通の歩道を、私は何となく
うつむき加減で歩く。人ごみですれ違う他の人たちを避ける時、気付くと一人分ほど余計
に隙間を開けてしまっている。まるで誰かが隣に並んで歩いているように。
こんなことじゃいけないな。お祭なのだから、せめてそれらしい顔くらいしよう。そう
思った私は、自分をリセットするためにちょっと立ち止まり、顔を上げて深呼吸をしよう
とした。その私の肩を後ろから走ってきた誰かが叩いた。
「!?」
今度は私がハートに豆鉄砲をくらって振り向くと、流暢な英語が私に話し掛けてきた。
'Excuse Me.'
何かのユニフォームらしいコート姿に大きなカメラを下げた女性だった。短く切った髪が
精悍な印象を受ける。おそらく、例の軍人さんといってはいけない軍人さんだと思われた。
'Didn't you lost this cell phone?'
女性は、そう言いながらひとつの携帯電話を差し出す。連絡用におば様の電話はお借りし
てきている。だが、自分のポケットにはその重みはある。とりあえず受け取ってみるが、
やはり私のものではない。ちょっとだけ迷ったが
「いいえ。これは私のものではありません」
と日本語で答えた。
「あ、失礼しました。日本語がおわかりになるんですね」
軍人さんは軽く頭を下げた。
「はい。けれど、なぜこれが私のものだと思ったのですか?」
「いえ、うちの隊の者が、落としたのを見かけて拾ったらしいのですが、金髪の女性だっ
たので話し掛けられなくて、渡せないうちに人ごみに見失ったとかで・・・」
「まあ・・・」
「どうもやはり外国の方だと思うと気後れするようで。それで、どうしようかと思ってい
たところにあなたを見かけて、聞いてみようかと思ったのですが」
「そうでしたか」
そんな会話をしていると、電話がきれいなメロディをかなではじめる。発信者として映し
出されていたのは、男性らしい名前だった。私は、軍人さんに目配せすると、電話機を開
いて通話ボタンを押す。
「はい」
受話器の向こうから、女性の声がする。
<あのう・・・どちらさまでしょうか>
かかってきた電話から発せられるものとしては最大級にイレギュラーな言葉だった。私の
日本語処理能力を少しばかり越えた事態に私が返した言葉は
「こちらは・・・ええと、こちらは、こちらさまですが」
<あ・・・はあ・・・こちらさまですか>
「はい。こちらさまです」
<・・・・・>
「・・・・」
軍人さんは何か想像を絶する事が起こっているのでは、という表情でこちらを見ている。
「あの、この電話を落とされた方ですか?」
<・・・あ、はい!>
私は、軍人さんにうなずいてみせる。軍人さんは警戒態勢を解いてくれた。
「今、駅前通なのですが、どういたしますか?」
<わかりました。すぐに取りに伺います>
「それでは・・・」
私は、待ち合わせ場所として、近くにあるチェーンのカフェの名を告げる。
<はい。わかりました。どうも申し訳ありません>
「いえ。それではテーブルの上に電話を出してお待ちしています。わたくし、北野と申します」
<北野さん、ですね。わかりました。急いで参ります>
そう言うと、相手の女性は電話を切った。
「持ち主の方とご連絡がつきましたので、これは私のほうでお渡しします」
「でも、それはあまりにも・・・」
「いえ。いいんです。ヒマですから」
「そうですか・・・それでは申し訳ありませんがお言葉に甘えさせていただきます。勤務
中ですので、これで」
軍人さんは、私に敬礼をすると、少し離れたところにいる同僚らしい人たちのところへ
戻っていった。
「・・・町空曹ぉ、金髪美女のナンパはいかがでしたか?」
「誰がナンパよっ!バカばっか言ってないで早いトコ陸自さんの晴れ姿撮りに行くわよ!」
そんな会話が遠ざかっていった。
私は手にした携帯をちょっとだけ見つめると、先ほど待ち合わせ場所に指定したカフェ
へと向かった。これは日本語で言うところの『小さな親切、大きなお世話』というものな
のかもしれない。でも、困っている人をほっておけなかったし、そして何よりもこの街に、
この空の下にいる私と同じ髪の女性に逢ってみたかったのだ。なぜかむしょうに。
私は待ち合わせ場所に指定したカフェに入った。カウンターでココアをオーダーし、そ
れを受け取るとちょうど空いていた店の奥の4人がけのテーブルに席を取る。待ち合わの
目印の携帯電話をテーブルの上に置くと、お店の人にはちょっと申し訳なかったが、脱い
だコートを対面の席に置いて一応の『予約席』とした。
暖かいココアを少しずつ口にしながら私は入り口を気にしていた。なんだかデートの相
手を待つみたいな気分で。
自動ドアが4回ほど動く。私が5回目の失望を覚悟した時、その人は現れた。
私より短めだが、確かに同じような色の髪だった。日本人の男性と2人連れだ。たぶん先
ほどかかってきた電話の持ち主なのだろう。2人は何事か話し合うと、男性の方がオーダー
のためにかカウンターに残り、女性のほうはキョロキョロしながら店内を探し始める。彼
女は一度、私の側を通り過ぎ、ん?という感じで立ち止まるときびすを返して私の側に立ち、
そしておそるおそる話しかけてくる。
「あのう・・・」
電話のあの声だった。
「はい?」
「北野・・・さんですか?」
「はい。そうです。この電話の持ち主の方ですか?」
「あ、はい」
私は、席の予約用のコートを自分のひざの上に戻す。
「あ・・・すいません」
女性は、言葉を喋る猫でも見たような表情で席についた。
「いえその・・・お名前からてっきり日本人かと」
「父が日本人で、母がフィンランド人です」
「そうでしたか」
女性の日本語は、かすかだが外国語の訛りがある。それでも電話では気付かない程度なの
だから、私が言うのはおこがましいが、達者というべきだろう。
「失礼ですが、どちらの方ですか?」
「あ、私はロシアの出身です。今は、小樽に住んでいます」
「それでは今日はお祭の見物ですか?」
「はい。お休みを層雲峡の温泉で過ごした帰りがてら、ということで。ついでにこちらの
近くにあるガラス工房を見学してきました」
「あ、そういえばありますね。お好きなんですか?ガラス細工が」
「はい・・・というよりも仕事なもので。色々と参考にしたいと思いまして」
「ガラス職人さん、なのですか?」
「はい」
「すてきなお仕事ですね」
「全然すてきじゃないですよ。一年中熱いし、手なんか荒れ放題だし。ほら」
そう言って差し出された女性の手は、確かにかなり荒れていた。指にはめられた小さな
リングも、それを強調しているかのようだった。
けれど、女性の微笑は自分が今しがた言ったことを全て否定していた。
「お待たせ」
そこに同伴者の男性がドリンクを乗せたトレーを持って来た。
「ありがとう。でもほんとうに時間はだいじょうぶなのですか?」
「車だからコーヒー1杯ぶんくらいなら何とでもなるよ。もう東京に戻る時間とか心配
しなくていいんだし」
「そういえばそうですよね。何かまだ実感がわきません・・・あ、失礼しました。こち
らが電話を持ってきていただいた北野さんです」
「あ、どうも。今回はすいませんでした」
「いえ。困ったときはお互い様ですから」
そんな型どおりの会話をしながら、私は2人を改めて観察する。女性のほうは、年齢は20歳
くらいだろうか。確かに『金髪』ではあるけれど、私よりかなり淡い。肌の色も髪の色に
合わせるかのような、日本語でいうところの『透き通るような』色だ。
さきほどガラス職人さんと言っていたけれど、ひょっとしたら自分自身で自分のからだを
作り上げたのでは、とさえ思える。人違いされたのが私なんかでは、何だか申し訳なかった。
男性のほうは、年齢は女性と同じくらい。どちらかといえば容姿はインケンな部類に入
るだろう・・・違う。『イケメン』だったっけ。ともかく、ハンサムであることは確かだ。
だが、顔の造作よりも何よりも、その女性を見つめる眼差しの柔らかさ、暖かさが印象的
だった。そういえば先ほど女性の指にあったリングも、こんな風に暖かく光っていたよう
な気がした。
「北野さんはこちらにお住まいなのですか?」
女性、『金髪さん』が聞いてくる
「・・・いえ。以前はちょっと住んでいたのですが、今日は旅行で来ています」
「そうですか。日本は、特に北海道は住むにはいいところですよね」
「はい。私もそう思います」
そんな、これも型どおりといっていい会話を交わす2人を『イケメンさん』の男性の方が、
興味深そうに見つめている。
「どうかしましたか?あ、北野さんがあんまり美人なんで見とれてたんでしょう!ひどい
です!」
金髪さんが、楽しそうに言う。
「あ、そうじゃなくて・・・」
イケメンさんの焦り方がちょっと可愛い。というわけで私も乗ってみた。
「それは私が美人ではない、ということですか?ひどいですね」
「え、ええといやそうじゃなくて」
2人分の攻撃を受けて、イケメンさんは防戦一方である。女の子同士のこういう時のチー
ムワークは国籍・人種を問わない。
「まいったなこりゃ。いや、何か不思議な光景だな、と思って」
「不思議・・・?」
「あ、うん。金髪の女の子2人が日本語で会話してる光景って、あんまり見られないから
さあ」
「ああ、なるほど」
と、納得の言葉を言う私に続けて、金髪さんは
「確かに。そう言えばそうですね。日本に来てずいぶんになりますが私も始めて見まね」
「何をひとごとみたいに」
イケメンさんのささやかな反撃に、私たちは、今度は3人で笑った。その笑い声に、電子音
が重なる。
「?」
「あ・・・こっちだ」
男性が携帯電話を取り出して、発番を見る。
「札幌から?・・・なんだろ。ちょっと外で電話してくるね」
「はい。行ってらっしゃい」
イケメンさんは電話を持ってカフェの外に出て行く。テーブルはまた、私と金髪さんだけ
になる。
「本当に仲がおよろしいのですね。羨ましいです」
「そうですか」
何となく、また型通りの会話。
「あんな優しそうな方に出逢えれば、日本での生活は楽しいのではありませんか?」
今度も型どおりの言葉のつもりだった。だが、次に浮かんだ金髪さんの笑みは、何か苦い
ものを含んでいた。そこで私たちは、ほとんど同時にカップを取り上げ、口をつけ、また
ほとんど同時にソーサーに置いた。かちゃり、という乾いた音のユニゾン。それを合図に
するかのように、彼女は口を開いた。
「そう、ですね。あの人がいなければ、日本をこんなに好きになっていたかどうか・・・」
笑ってはいた。口調も変わらない。だが、明らかに表情に陰がさしていた。
「日本で暮らすのは・・・つらいですか?」
口に出してからしまった、と思った。ストレートすぎたか、と思った。だが、彼女の表情
はそれほど変化はなかった。ただ、陰がだけが心なしか強くなっていた。
「うん。あまり楽、とは言えないかもしれませんね」
明らかに彼女は言葉を慎重に選んでいる。けれど、私と同じ色の髪を持つ人が語る、この
国のことに、私は相槌を打つこともできなかった。
「この国の文化やシステムは、正直、私たちのような人間にとって、開かれているとは言
いがたい部分がたくさんあります。笑って話せないような経験も・・・してきました。
正直、母や父の待っているロシアに帰ってしまおう、と思ったことも何度もあります」
「・・・」
彼女は、またカップに口をつけた。その瞳が、少しの間だけ深い湖のような色彩を帯びる。
「それでも、今、私は日本にいます」
けれど、次の瞬間には、瞳からも、微笑みからも陰は消えていた。
「だって、私の・・・夢を育ててくれたところ」
金髪さんは、先ほど見せてくれた荒れた手を今度はテーブルの上に組んだ。
「そして・・・なによりも・・・いちばん大切な人の側にいられる場所ですから」
「あ・・・」
彼女の指のリングが、ささやかに、けれど力強く輝いていた。その光は私の中でずっと
渦巻いていたものを溶かしてくれたような気がした。
「なんだか、すごくはずかしい事を言ってしまいましたね」
金髪さんの頬が、さくらんぼのように染まる。
「いえ。とてもすばらしい事だと思います」
自分の日本語ではこれ以上の表現はできない。いや、たぶんフィンランド語でもできない
だろう。それくらいすばらしいと思った。そう言える事が、そう言える人がいることが。
「いやまいったよ。何かと思ったら陽子おばさんが予定より早く札幌に戻っててさ、
『名物のチーズケーキ買って来な!』って」
電話を終えたらしいイケメンさんがブツブツいいながら戻ってくる。
「まあ」
金髪さんは手をテーブルの上から下ろすと、苦笑を彼に向けた。
「『あたしに断りもなくでかけたバツだよ!』だってさ」
「あ、バレちゃいました?」
「いやー、従姉妹がさあ、詰められて喋っちゃったらしくてね」
「でも、あのおばさんらしいですね」
私が2人をちょっと妬ましく見つめていると
「すいません、この店ご存知ですか?」
それを知ってか知らずか、男性は店名を書いたメモを差し出す。
「ああ、そこでしたらここからちょっと離れてますね。でも車でしたらすぐですよ」
「そうですか。ありがとうございます・・・じゃあ、行ってみようか」
「はい」
「私もそろそろ出ますので、だいたいの道はお教えできますよ」
「じゃあ、お願いします」
私たちは席を立ち、外に出た。冷たい空気がなぜか今は頬に気持ちよかった。私は、聞か
れた店への道を説明しようと、ちょっと奥まった路地へと入る。大通りと違って、日陰の
部分はまだ歩道上の雪が解けきっていなかった。
「あそこ、見えますか?」
私は、先を指差そうと2人よりちょっとだけ先に踏み出した。だが、その、足の裏は接地を
また拒否された。
つまり、また、滑った。
「!」
今度はバランスを取る余裕がなかった。私は転倒にそなえて身構えた。
「あぶない!」
私を受け止めてくれたのは、冷たい地面ではなく力強く、暖かい胸と腕だった。
「え?」
おそるおそる振り返る。イケメンさんだった。彼はしっかりと私を後ろから抱き止めてい
てくれた。肩越しに、金髪さんが早足で近づいてくるのが見える。あんなに離れたところ
から私を助けに駆け寄ってくれたのだろうか。この人は・・・。
「だいじょうぶですか?」
頭の上からの声。
「!」
一瞬白くなったあと、私は慌てて彼から体を離した。息と脈が目覚し時計のベルのように
けたたましく鳴り響く。
「kiitos・・・ei・・・あ、ありがとうございました」
私はたぶん、歯車で回されているようなおじぎをしていたに違いない。そのおじぎからそっ
と顔を上げてみる。イケメンさんは笑っていた。ああ、やっぱりそんなおじぎだったんだ。
私もちょっと笑った。でも、金髪さんの方の顔は見られなかった。何だか顔向けできない
ような気がして。
「気にしないで。こういう人なんです。転びそうな人を見ると、もうほっておけないんで
すよ」
「え・・・」
声に誘われるように、私は金髪さんを見る。彼女は彼の腕を取り、そして彼と私を交互に
見ながら、始めはちょっと困ったように笑い、そして次に誇らしげな表情になった。私に
はそれが金メダルを取ったアスリートのように見えた。
「そうなんですか・・・実は 私もそんな人をひとり、よく知っているんです」
ちょっと悔しくなった私は、そういい返してみる。金髪さんは、表情を崩さずに答えた。
「そうですか。それはすてきですね」
だめだ。やっぱり私にはまだメダルはとれなかった。
「それでは。どうもいろいろとありがとうございました」
イケメンさんの言葉で2人はもう一度、会釈をする。
「また・・・どこかでお会いできるとうれしいですね」
「はい」
金髪さんと私はみつめあった。きれいな、そして強い意志の笑顔。そして隣には大切な
人。ここは、日本の旭川。だけど、2人はどこでもないところにいる、たぶん世界でいち
ばんしあわせな場所に。
腕を組んだまま二人は通りの向こうへと消えた。最後に金髪さんはもう一度だけ振り返り、
もう一度だけ微笑んだ。
私は、その最後の笑顔の魔法にかかったかのように、その場に佇んでいた。何となく視線を
伏せる。自分の足元が見えた。
「夢を育ててくれたところ・・・」
なぜか、先ほどの言葉が耳の奥から響く。私は、今度はゆっくりと天を見上げる。
真っ青な冬の空が、冷たく澄み切った色の場所がどこまでもどこまでも広がる。そして
その場所から、風の音、いや、どこかを飛んでいる飛行機の音がかすかに耳に届く。
「大切な人の側にいられる場所・・・」
そして私はまた、歩き始めた。まっすぐに前を見て。
そう、今日の私にはあの人のための買物がまだ残っているのだ。