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「建物はここ、か!」
「ここって…」
温子ちゃんが俺を引っ張って入ったのは、工芸素材やインテリア小物などを扱っている
大型の専門店のビルだった。土産物でも買うつもりなのかなあ、それにしては…などと
考える間もなく、俺は8階のフロアへと引っ張られる。そのフロアの一角、ペット用品の
ブースの一角にあったのは、
「ここここー!」
温子ちゃんに連れられてきたコーナーの入り口は、大きな口を開けたネコの形のゲートが
立っていた。ゲートの前の立て看板にはネコの写真と名前が貼ってある。
「早く入ろ!」
もどかしそうにペアチケットを買うと、温子ちゃんは俺を引きずり込むようにして猫の口
へと飛び込んでいった。

「みてー!ほらー!」
壁のペイントや置物、そんなネコづくしの内装を俺たちを出迎えたのは、あくびをしたり
寝転んだり、顔を洗っていたりする本物のネコたちだった。
そういえばネコ好きなんだけれどいろんな事情で飼えないような人たちのためのネコとの
触れ合いスペースが開設されている、みたいな話をニュースか何かでやっていたような
気がする。そうか。ここがそうだったのか。
「んー?どしたのー?」
足元によって来た一匹を温子ちゃんが抱え上げる。一声、にぃ、と鳴いた猫を胸に、温子
ちゃんは、猫部屋のひとつへと入っていく。俺もそれを追いかける。
部屋にはさらにたくさんの猫がいる。そんな中の一匹がねそべっているソファに温子ちゃ
んは陣取り、猫を撫でている。
「あ、君もだっこしてほしいんだー」
膝の上に乗ったさっきの猫を解放すると、今度はソファで寝ていた一匹を抱き上げ、
ほお擦りしながら
「おーよちよち」
とか言っている。ダメだ。もう完全に壊れている。これじゃさっきの電話の話なんかでき
そうにない。どうしたもんだろうと考えをめぐらす俺の足元に気配があった。

にぃ

小柄な一匹が、何か言いたげに俺をじっと見上げていた。うう。こんなことしてる場合
じゃなくて温子ちゃんに言わなきゃいけないことがあるんだけどあああああがまんできない。
気が付くと俺は温子ちゃんの隣に座って、膝に乗ってうつらうつらする猫の背中を撫でる
快楽にひたっていた。

「ふぅ」
「はぁ」
小一時間後、俺たち二人はいい具合に弛緩した体をソファに乗せていた。猫というのが
こんなに恐ろしい生き物だとは思わなかった。
「いいよねー、猫」
「いいねえ、猫」
「猫、ずっと飼いたかったんだよね」
足元をとてとてと駆けていく猫を眺めながら温子ちゃんがつぶやく。誰に言うでもない
ように。
「でも、二人とも家にいないから飼おうにも飼えないでしょ。お店に置いとくわけにも
  いかないし」
「飼おうよ」
「え?」
温子ちゃんがちょっと意表をつかれたような顔でこっちを向く。俺はひと呼吸置き、
そして温子ちゃんの目を見つめて言った。
「3人家族になるんだからさ。俺と、温子ちゃんと、お母さんと…」
「あ…」
温子ちゃんは何か、大切なことを思い出したような顔になる。そして目を伏せる。沈黙が
降りた俺たちのそばで、猫が一声鳴いた。
「そろそろ出ようか?」
「……うん」
それを合図にするかのように俺たちは立ち上がった。

街にはいつの間にか夕暮れが落ち始めていた。温子ちゃんはさっきから魔法が解けたみた
いにうつむいたまま、俺の後を所在なさげについてくる。足が何となく裏通りに向く。
やがて、大通からちょっとはずれた場所にある公園の前にやってきた。
「ちょっと座ろうか」
「え、うん」
俺たちは公園に入り、ベンチに腰掛けた。

「……」
温子ちゃんが憂いを含んだ息を吐く。原因は、もうわかっている。俺は軽く深呼吸をする。
そして、温子ちゃんの横顔に話し掛けた。
「温子ちゃん……」
「なぁに?」
「さっきお母さんから電話があったんだ」
「……お母さん…ってうちの?」
温子ちゃんがこっちを向く。
「うん。で、話、みんな聞いたよ」
「え」
「ほんとは、今日はもう次の物産展の場所に移動して準備始めなくちゃいけなかったん
  だって?向こうに着いてなくて、携帯でも連絡が取れないっていうんで、ちょっと
  した騒ぎになったらしいよ」
温子ちゃんの驚いた顔がだんだんと曇ってくる。
「……うん…ほんとは、きょう一日空くはずだったんだけど…スケジュールが変わっちゃ
  って…で、何とか休みにして、ってことでお母さんと電話で交渉したんだけど決裂、
  っていうか大喧嘩しちゃったの」
「だから電話の電源、わざと切ってたんだね」
「だってぇ…デートと店とどっちが大切なの?とか言うんだもん…そんなの…」
温子ちゃんはそこでちょっと言葉を切り、またうつむく。そして、かすれた声で
「そんなの決められるわけ…ないじゃない!」
俺は、温子ちゃんの肩を抱き寄せ、髪の毛を軽く撫でる。
「お母さんもちょっと言い過ぎた、って言ってたよ」
温子ちゃんは、それには応えずに俺の肩に顔をうずめる。
「でもどうしてひとこと相談してくれなかったの?」
「…だって、あなたに言ったら絶対、お店を優先させろ、って言うに決まってるもん…
  ずっと会えなくて、楽しみしてたのに…そんなのやだよ…」
「…別に次のところ、仙台だったっけ?に俺がついてく、って手もあったし全部日程が
  終わってから改めてお休みをもらうとかでもよかったじゃない」
「…うん。後でそう思ったけど、何かもう後に引けなくなっちゃって…」
「しょうがないなあ」
「……ごめんなさい」
その声は小刻みに震えている。
「俺はいいよ。それに、ほんとうに謝らなくちゃいけない人がいるだろ」
「うん…」
俺は、温子ちゃんを片手で抱きながら電話をポケットから取り出す。そして、リダイヤル
のボタンを押した。発信音。
『はい。茜木鮮魚店です、あ、あんたかい』
お母さんの声だった。
「はい。今、温子ちゃんはここにいます」
『そうかい。まったく…とんでもない娘だよ!』
電話の向こうの声からは、言葉とはうらはらな安堵が伝わってくる。反対に、温子ちゃん
の体が少し固くなる。俺は深呼吸とも、溜息ともつかないものを吐き出す。
そして、言った。
「…それで、今回は俺が無理に温子ちゃんを誘っちゃったばっかりに…すいません。全部
  俺のせいですんで、温子ちゃんをあんまり責めないでいただけますか?」
電話の向こうが少し沈黙する。そして、心なしか穏やかになった声がした。
『そうかい……わかったよ…じゃ、悪いけど、温子に代わっておくれ』
「温子ちゃん」
「うん」
俺は電話を手渡すとベンチから立ち上ってその場から少し離れた。また少し風が出てきた
ようだ。夕焼けの赤、夕闇の藍色、そして自分自身の青で染まった秋空を雲がゆっくりと
流れていく。なんだか随分と気持ちよさそうだ。

そっか…俺は雲じゃないんだな…きっと風なんだ…

「え!?」
頓狂な声がする。俺がそちらを向くと、温子ちゃんが手招きしている。
「お母さんが代わって、って」
「ん?」
俺は電話を受け取る。
『これからの事は、温子に言付けたから、しっかり面倒見てやっておくれよ』
「はい」
お母さんの声はなんだか嬉しそうだ。
『それから…ありがとうね。温子のこと、かばってくれて』
「いえ…」
バレバレかぁ。かなわないなあ。
『じゃ、よろしくね』
ふう。俺は電話を閉じる。
「どう?仲直りはできた?」
「うん。移動は明日の朝の新幹線でもいいって。でも…」
「…どうかした?」
「そのう、騒がせた罰を言い渡されちゃった…」
温子ちゃんがモジモジしながら言う。
「なに?そんなに難しい事なの?」
「…そのう…」
「俺に手伝える事があったら何でも言ってよ」
「……わかった。じゃあ、言うね」
「うん」

「あなたの家に泊まって、ご両親にご挨拶しておいで、だって」
「へ」

あまりにも意表を突かれた俺は口を開けたまましばらく固まる。温子ちゃんは俺から
視線を外したりちらちら見たり。こころなしか頬が赤い。
「そのう…こ…こ…婚約者の実家で急用ができちゃって、お手伝いに行った、って事に
  したんだって」
「は、はははは」
参ったなあ。急にいわれてもなあ。とりあえず家に何か都合が入ってないか。はかない
期待をかけて連絡を入れてみる。

「……しっかりお母さんから連絡が入ってたって。オフクロ、楽しみに待ってるってさ」
「あっちゃー。やっぱり一枚上手ねー」
同感。こうなったら腹をくくるしかないな。
「…行こうか」
「うん!」

俺と温子ちゃんは顔を見合わせ、そしてどちらからともなく微笑んだ。