電車の冷房で冷えた体に残暑の熱気が一気に染み込んでくる。
平日の昼間のターミナル駅、ホームのアスファルトからの輻射熱を渡って改札口へと続く
階段へと向かう。階段を下りようとした刹那、ふっと風が吹き抜ける。その風はもう次の
季節の予兆だった。
俺がこの街で過ごす、たぶん最後の夏が終わろうとしていた。
駅を挟んで真向かいにそびえる老舗のデパートへと俺は向かう。この店のメインの客層で
あるご婦人たちの間を何となく気後れしながらすり抜け、俺は催事場のある階へと上って
いく。
エスカレーターを降りると正面には大きな写真パネルが立っている。青い空と白い街並み、
ついこの間実物を見たばかりの風景だ。パネルには大きく、「秋の北海道物産展」の文字
があった。
最終日前ということもあってか、平日のあまり早くない午後にも関わらず催事フロアは
けっこうな人の入りだった。
生チョコレートや三方六、トウモロコシやカボチャ、レトルトのスープカレー、そんな北
海道の特産品の数々を手に取る買い物客の隙間を抜け、俺は会場の奥にある色とりどりの
のぼりが並ぶ一角に向かう。
そこは、最近の物産展でよく見かけるようになったイートイン、ラーメンや寿司など地元
そのままのメニューが食べられるという趣向の飲食店の出店だった。今回出店しているの
は二店、俺はその中の「函館朝市食堂」に入る。レジで食券を買うと、ちょっと学祭の模
擬店みたいな席に着いた。
催しが始まった当初は行列もできた、ということだったがさすがにもう客足は落ち着い
ている。
カウンターの奥では、フロア係らしい女の子が二人何事か話し合っている。
そのうち一人がこちらに気付く。そして、もう一人を促す。その小柄な女の子がこちらを
見る。そして目を見開き、次に固まり、それが解けるとなにやらそわそわし始める。
もう一人はニヤニヤし、小柄の子の背中をぽん、と叩いてからこちらへやって来た。
「いらっしゃいませー」
テーブルに水を置き、食券を取り上げ、注文を厨房に大声で伝える。そしてまた、厨房
の方に戻っていく。興味津々といった体でこちらをちらりと覗き込みながら。
「お待たせしました」
程なく注文したメニューが運ばれてくる。テーブルにやってきたのは先ほどの小柄な方
の女の子だった。
「ごゆっくりどうぞ」
彼女は料理の乗ったお盆をテーブルに置き、そしてそそくさと厨房に戻るまでこちらと
けして目を合わせなかった。なんだか顔がちょっと赤らんでいたような気がする。
俺は苦笑する。
とりあえず食事を済ませてしまおうと丼を持ち上げると、そこに小さなメモ用紙。いかに
も「大慌て」という感じで走り書きされていたのは
すぐ休けいになるから、屋上でまってて
という伝言だった。
俺はカウンターの向こうに軽くうなずいた。小柄な女の子は横目でそれをちらり、と確認
すると、厨房の奥へと引っ込む。
それを見届けた俺は、とりあえず目の前に出された新鮮なイカ丼に舌鼓を打つことにした。
食事を終えた俺は伝言に従い屋上に昇ると、片隅に設けられている休憩所のベンチに腰
掛けた。
空をふっと見上げる。
残暑をもたらしている太陽の輝きは夏と変わらないように見える。けれど、その太陽に
よりそう雲の形はもはや夏の名残をとどめていなかった。俺の頬を心地よく撫でていく風
は、そんな雲と俺の大学生活最後の夏をどこかへ運んでいこうとしていた。
もう講義は週に数コマ、本来ならおおわらわの就職活動も半ば決まりかけている。
そんなわけで、ほかの同期生の連中に比べるとだいぶ楽な人生を送らせてもらっている。
……何か流されてるだけ、って気がしないでもないけどなあ。心地よさと居心地の悪さ
が半々に混じったざわざわがどこかかから湧いてくる。
おまえもそんな気分なのかい?などと風に流れていく雲に文学的な問いかけをしようと
した瞬間、頬に強烈な冷却感が走った。
「うわわわ!」
心臓と俺の文学的思索が吹っ飛んだ。驚いて振り向くと、物産展の会場にいた小柄な女の
子が立っていた。その胸のネームプレートには<茜木温子>の名前が入っている。
北海道は函館の茜木鮮魚店の看板娘にして、俺が、その、なんというか、えーとほら、
将来を誓ったっていう、まあそういう関係の女の子だ。
「まったく気楽でいいわねえ、こっちは大忙しだっていうのに!」
そう言いながら、温子ちゃんは手にした2本の缶ジュースのうちの、さっき俺の頬に当て
たほうの一本を手渡してくれた。
温子ちゃんは体を投げ出すように、俺の隣に座った。
「急に来るからびっくりしちゃったじゃない。もう」
そう言いながら温子ちゃんは、缶ジュースのプルトップを引いた。
「ははは、ごめんごめん。今日ぐらいならあんまり忙しくないかなと思ってね」
「そうねー。明日、最終日になると今度は駆け込みのお客さんが来て、けっこう立てこむ
からねー」
「へえ。それじゃあ、まだ気が抜けないんだね」
「ほんと。特に今回は慣れないことやってるからほんとにクタクタ!おまけに会期は一日
延びちゃうし…」
温子ちゃんは肩をぐりんぐりんと回し、短くため息をついた。
「次の催し物の都合だったっけ」
「うん。まったくいい迷惑よー。今度は仙台にお店出しに行かなくちゃいけないのに」
「ま、景気がいいってことだからいいなじゃないか」
「もー!他人事だと思って」
温子ちゃんはちょっとふくれて、缶のジュースを一口飲む。
「ははは。ごめんごめん。でもどうしてウェイトレスさんなんか?」
「うん。なんか元々来るはずだったバイトの子が急にダメになったんだって。それが
わかったのがこっちで物産展の準備が始まってからだったからもう大騒ぎ」
「そりゃあご愁傷様。でもこういうのってこっちで全部やっちゃうのかなあ、と思ってた
んだけど向こうからちゃんと地元の人が来るんだね」
温子ちゃんは、ジュースをまた二口ほど飲んだ。
「…うん。昔はそうやって全部イベント業者さん任せにしてたんだけど、うち、っていう
かあたしらはそういのもうやめにしようって、みんなで決めたの」
「今回は、お店じゃなくて市場の組合で出てるんだっけ」
「うん。まあ組合って言うか、その中でもあたしみたいなお店の二代目・三代目の集まり
の青年団みたいなもん。みんな、自分たちの納得できる品物をお客さんに買ってもらい
たい、って思ってるんだ」
「へえ。みんな頑張ってるんだね」
そう言った俺の顔を温子ちゃんがじっと睨む。
「うん?」
「なーにひとごとみたいに言ってるのよ。来年からはあなたもがんばらなくちゃいけない
のよ。なにせ期待の星なんだから」
温子ちゃんが俺の背中をぱん!と叩いた。
「ぶっ」
そのショックで俺は軽くむせる。
「これでようやく、組合にもパソコンとかちゃんと使える人が来るって、みんな喜んで
たわよ。なんせ今までおじさんおばさんばっかりだったから」
将来を誓ったのはいいけれど、先々の話はどうしよう、という段になってやっぱりいき
なり魚屋の旦那は無理があるんじゃないのか、という判断が入った、のかどうか不明だが、
ちょうど定年退職する人がいて空きのできる組合の事務方に推薦というか斡旋というか、
あれよあれよという間に就職が内定してしまったのだった。
たぶん、年明け早々からは見習という形で向こうでの生活が始まるんだろう。今のところ
そういう予定になっている、はずなのにどうもまだいまいち実感がわかない。
風が一陣。ふ、と目を落とすと、何かの葉っぱがコンクリートの床の上をくるくると回り
ながら通り過ぎていく。その葉っぱに、何かの感覚が呼び起こされようとした時
「あ、もうこんな時間だ」
俺の胸の内を知ってか知らずか、温子ちゃんが声を上げる。
「ごめん。もう戻らなきゃ」
「じゃ、行こうか」
俺たちはベンチから立ち上がり、出口の方に並んで歩き始めた。
「?」
掌に暖かな感触。横を向くと
「へへへ」
照れ笑いをしている温子ちゃんと目が合う。俺が手を握り返そうとすると
「!」
温子ちゃんがいきなり手を引っ込める。
「どうしたの?」
その返事より先に、俺たちは一人のほっそりとした女の子とすれ違った。女の子は温子
ちゃんと軽く会釈を交わす。
「だれ?」
「となりの札幌ラーメン屋さんの店長の妹さん。お店のお手伝いに来てるんだ」
「じゃあ、やっぱり向こうから?」
「それがね、彼氏を慕って東京住まい!今はこっちで大学生やってるんだって!」
温子ちゃんが手を口に当ててニヤニヤしている。完全に団地のおばさんモードである。
「なんでもね、彼氏が札幌に旅行に来た時に知り合ったんだってー。誰かさんみたいよねー」
「ははは」
俺は乾いた笑いを浮かべる。
「うふふふ」
そうからかうように笑った温子ちゃんが、ふっと俺から視線を外す。
「…それ聞いてちょっと考えちゃった…」
「え?」
「……そういうのもアリだったのかなあ、って。あたしがこっちに来て、あなたと住ん
じゃえばよかったのかなあ…とかね」
「……」
温子ちゃんはそう言ったきり黙りこむ。何かを待つように。少しの沈黙。そこにきらび
やかな音楽と人々のざわめきが割り込んででくる。
俺たちはいつの間にか館内、物産展が開かれている最上階のフロアに戻っていた。会場の
入り口で俺たちは一度立ち止まる。
「じゃ、あたし行くから」
「うん。じゃあがんばって」
「ありがと」
そう言って去ろうとする温子ちゃんを俺は呼び止める。と言ってもそう大層な用ではない。
「あ、明後日はだいじょぶそう?」
「!……うん!もちろん」
ほんの少しの間の後、温子ちゃんは笑顔で応える。
「…そっか。ほら、急に会期が変わったせいでスケジュールが一日ズレちゃったから」
「うん。まあ、そのへんは何とかしたから。何せ3ヶ月も前から楽しみにしてたんだもん
ね!あ、それじゃ」
「じゃ、また明後日」
温子ちゃんは手を振りながら、会場の中へと消えていく。俺はそれを見送ると、下りの
エスカレーターに乗った。
「……」
別れ際の温子ちゃんの様子をちょっとだけ気にかけつつ、俺は百貨店の外に出た。見るとも
なしに空を見上げる。先ほど見上げたのと変わらない雲が、少しだけ陽を翳らす。その影
に追いかけられるように、俺は帰途についた。
雑用をすませつつ自分の部屋に帰り着いたのは、夕刻だった。開け放した窓の外から、
外気と夕焼けの光が入ってきた。ラジカセを点ける。インジケーターの明りが薄暗い部屋
に輝く。ラジオから女性DJの声が流れてくる。
確かこの人の番組、北海道旅行に行った時、よく聞いたよなあ。そうか、こっちでも番組
持ったのか。
そんなことを思いつつ、メールを受信するために俺はパソコンの電源を入れる。番組は
トークからニュースに切り替わる。事件や事故・政治や経済、そしてスポーツのニュース
が流れていく。フィンランド出身の女子スケート選手が日本人として大会に出場する、
という話題を聞きながら、俺はメールソフトの受信ボックスをチェックする。
まずスパムやダイレクトメールをゴミ箱に捨てる。次に大学関係の連絡用メールを何通
か読み、予定表をチェックする。そして最後に北海道に住む高校時代の悪友たちからの
メールを開く。卒業後の進路を打ち明けたメールの返事だった。
温子ちゃんとのことで世話になった函館の佐々木や旭川の前原からは祝福半分・冷やかし
半分(こっちの方がちょっと多目だけど)の返信が着いていた。今度何か送ってやらな
きゃいけないな。
帯広の大野からは、例によってお菓子屋さんにいる「天使」の話だ。いや、彼女を作った
秘訣を教えてくれと言われてもなあ。道でぶつかれ、とも言えないしなあ。道内で獣医
を目指すそうで、「来たらとりあえずそのうち飲もう」と締めてあった。
白石は、長い入院からようやく退院した妹さんの療養もかねて、卒業後も北見に留まる
らしい。添付された写真の女の子が妹さんだろうか。あいつに似ないで可愛い娘だなあ、
と思った瞬間、温子ちゃんがすごい目でこっちを睨んでいる図が浮かんでくる。はいはい。
浮気はしませんよー。
最後は、札幌の冬真だ。なになに……へえ、あいつも就職決まったのか。バイト先に
そのまま就職、かあ。何の仕事なんだろ。あいついい男だから、ホストとかだったりして
な…あいつに限ってそんなことないか。ああ見えて硬派だからなあ。
「二人で飲もうよ。男同士、いろいろ積もる話もあるし」か。そうだなあ。あいつとは
いっぺんゆっくり飲みたいなあ。
懐かしい悪友たちの顔を思い浮かべながらメールを読み終わるともう窓の外はすっかり
宵闇になっていた。
ラジオから流れてきているのは、監督した自主映画が海外で高い評価を得て、アメリカ
映画のスタッフに招聘された札幌の女子大生の話題。パーソナリティのお姉さんも札幌
出身らしく、我が事のように嬉しそうだ。
…俺と同い年の女の子、かあ。すごい人がいるもんだなあ。もしあの時札幌に行ってたら
会えてたかもなあ。
…そんなはずはないか。札幌なんて大きい街だし、そんな偶然なんかあるわけないよなあ。
でも、可能性だけなら0じゃなかったんだよなあ。そしたら、今ごろその女の子と仲良く
なってて、アメリカ行きのお祝いなんかしてて…
俺はラジオを消して、そして溜息をついた。バカみたいだ。俺、なんでこんなこと考え
てるんだろう。
冷気が頬をなでる。外からの風のようだった。もうそんな風の季節だったのか。
俺はとりあえず考えるのをやめ、窓を閉めた。
なぜだか、さっき頬を撫でた風の感触がいつまでもどこかに残っていた。