それはうんと昔のこと。
まだ世界のほとんどが、お菓子とぬいぐるみでできていたころだった。
最初にあの娘を見た時に、わあ、きれい、と思った。そしてちょっと妬ましかったのを
よく覚えている。
太陽の光みたいなきんいろの髪、よく晴れた日の空みたいな青い瞳。どちらもあたしは
持っていなかったから。
あの娘のお母さんもおんなじ髪と瞳だった。でもお父さんは違っていた。テレビでしか
見たことがない、夜の闇のように真っ黒な髪と瞳だった。外国人だった。その生まれた
国は、やっぱりテレビでしか知らないところだった。
そして、彼女に聞いたものだ。お父さん、カラテカなの?ニンジャなの?って。彼女が
一瞬困った顔をして、そしてすぐにくすくすと笑い出したのをなぜか、昨日、いや、
けさがたあったことのように思い出す。
「だいじょうぶ。いけるわ。前とおんなじ。あなたに勝てそうなコなんていや
しないわ」
「・・・・」
「・・・と、言っても今回は気休めにしかならないかしらね。ま、たった一人だけどね。
あなたの相手になりそうなのは」
監督が笑みと溜息を一緒に吐き出して言いながら、あたしの肩を軽くもむ。
「ま、いいわ。いつものとおりいきなさい」
「はい」
監督は軽く私の肩を叩き、控え室から出て行く。
そして、私は来るべき時に向けて全身の感覚と意識を研ぎ澄まし始める。
世界中のアスリートの頂点を決める、今日の晴れ舞台。銀盤、という言葉がけして誇張
ではない光り輝く場所。あたしとあの娘が互いに目指し、そして共に立つことが
できたこの舞台。・・・負けられない。そうよ。あなたには負けないわ。
集中していく意識の淵に、また、遠い日が浮かんでくる。
お菓子とぬいぐるみでできていた世界にはいろんなものが仲間入りしていた。意地悪な
男の子やすてきな先生、ちょっと可愛い髪飾りやドレス。
でも一番大きかったのはスケートだった。白い氷の上を一日、飽くことなく滑った。氷
の上を駆け巡ることはもちろん、転ぶことすら面白かった。もっともすぐに、転ぶことは
ほとんどなくなっていたけれど。
そして、その側にはいつもあの娘がいた。気がつくと、あの太陽と空の色が私の隣を
すーっと追い抜いていく。私は懸命に太陽と空を追う。そうしていくうち、いつの間に
か私とあの娘の滑る場所は、だんだんと大きくなっていった。
でも、私たちにはどうでもいいことだった。2人でいっしょに輝くリンクを駆け、笑い、
悩み、そして語り合う、そんな毎日があるだけだった。
そうだ。私はその頃、たぶんこの世で最もしあわせな人間の一人だった。太陽と空を
ふたつ、天上と、地上とに持てたのだから。
けれど、しあわせは続かなかった。太陽と、空が落ちた。落としたのは私自身だった。
何がどうなったのか。正直今でもよくわからない。あの時、私と彼女の差は少しづつ、
ではあるが開きつつあった。
私は何とか追いつこうとしていた。ずっといっしょにいたい。それしか考えていなかっ
た。焦っていたのかもしれない。
私は何かの拍子にバランスを崩した。そして、その崩れたバランスの先に、あの陽光の
ような髪と、驚きで見開かれた、あの青い瞳があった。
次の瞬間、何かに強くぶつかった衝撃を受けると同時に視界が急激に回転した。そして
すぐに、冷たくささくれた氷に体を強く叩き付けられる激痛が全身を走った。周りの
みんなが悲鳴を上げ、あわててこちらに近づいてくる。
もうろうとしかけた私の目に、駆け寄ってくれた人たちの顔の輪が見える。私は何とか
半身を起こす。大丈夫、と笑いたかったがすぐにはできそうにもなかった。とりあえず
落ち着くためにあたりを見渡す。そして、リンクの隅に、もう一つ人垣ができていること
に気付く、そして、そこにいる人たちが必死で呼びかけているのは、私がとても良く知っ
ている名前。
私は何が起こったかを始めて理解した。そして、そのもう一つの人の輪からは誰も立ち
上がらない。
最悪の予感が湧き起こる。
「!」
私は彼女に駆け寄ろうとする。しかし周囲の人たちが私を静止した。私は、半ば連
行されるようにして医務室へと運び込まれた。ひとつの名前を絶叫しながら。
軽い脳しんとうと擦り傷と打ち身とアザ。それが私の肉体的な変調の全てだった。
大事を取って休養を言い渡された私は、あの娘のことを聞いた。会いたいと思った。
けれど見舞ってくれるコーチや選手たちは、みんな曖昧な笑みと『あの娘も休養中』と
いう言葉だけを置いていく。言い知れぬ不安が私を包んでいく。けれど、リンクに戻れば
また、あの太陽の色の髪と、空の色の瞳に会える、そう信じていた。いや、信じていた
かった。
だが私に再び練習場に立つ許可が降りたその日、聞かされた事実は私にとっては残酷と
いう表現すら生易しいと思えるものだった。
絶対に、ということはではない。けれど、あの娘がこのリンクに戻れる日はたぶんやっ
て来ない。それが、コーチたちが目を伏せながら私に言ったことだった。
何もかもが一瞬白くなった。
けれど、次の瞬間、私はいつものように滑る準備を始めた。何と言って元気付けようか、
と思っていたであろう周りの人たちの方が、え?という顔になる。
別に無理をしたわけではない。だって、そんなの嘘だから。嘘に決まってるから。
彼女はすぐ戻ってくる。そうよ。そのはずよ。
ねえ?そうだよね?そうだと言ってよ。
誰か言ってよ。
しかし、私の願いは叶わなかった。
知らされるのはどうしようもない現実。そしてあの娘にかなわないと知った私が、
わざと彼女を傷つけた、という陰口と面罵。
もうリンクに出たくない、何度そう思ったか。でも、それをしなかったのはきっと
いつかあの娘が戻ってくると信じていたから。信じていたかったから。
そして氷を蹴る時、私は昔のように彼女を見ていた。そこにいなくても、私が追いついて、
追い抜くのは彼女しかいなかったから。
そうやって私はいつの間にか、国の名を背負う立場になっていた。
けれど彼女にはその後一度も会わせてもらえなかった。
事情はわかっている。どんなに実績を積もうがくすぶり続けるいわれのない疑惑。
もう私の名前は私だけのものではないのだ。もはやどんな小さなスキも見せるわけには
いかなかったのだ。
皮肉なことだ。あの娘に近づきたくて懸命に追いかけたのに、それが結果として彼女との
距離を遠ざけてしまったのだから。
そんなある日、彼女が国を離れた、ということを聞かされた。行先は彼女の父の故国だ
った。
ふ、と彼女の太陽のような髪と青空のような瞳と、彼女の父親の夜のような髪と瞳が
交互に浮かんだ。
それから、私はいくつかの栄光を祖国にもたらした。あの娘の名前は、大方の人には
記憶の彼方の事になっていた。
でも、私が氷上にある時には、必ずあの娘がいた。幻だとわかっていても、彼女は私と
共にあった。私が競っていたのは、たぶんずっと彼女だけだった。
そんな日、いつものように氷上を駆ける私の目の端にとても懐かしい輝きが飛び込んで
きた。おひさまのようなきんいろの輝き。そらのような青い輝き。
私は足を止めた。そして、その輝きのした方向を見つめた。
練習場のリンクサイド。まるで外の光が差し込んだように見えた。そこには、確かに
彼女がいた。
夢だと思った。でも違った。
息が止まった。そして、その息を吐き出すのといっしょに、いろいろなものが溢れ出して
くるのをおさえることができなかった。
駆け寄る私の視界がぼやける。頬に熱い物がつたう。私はひとつの名前を叫ぶ。あの日、
最後に彼女を見た日にそうしたように。
私は泣いた。彼女も泣いた。体の全てが流れてしまうのではないかと思うほどに。
そして話した。いっぱい話した。あの時のこと、これまでのこと、そしてこれからのこと。
そう、これからのこと。彼女は言った。
近いうちに、また滑りたい、と。少しづつ滑れるようになりたい、と。
私は何よりもそれがうれしかった。でも、さまざまな現実を知った私にはわかっていた。
たぶんもういっしょに技を競うことはないのだ、と。それがちょっと淋しかった。
けれど、私のそんな予想は外れた。私はまた彼女と同じところに立つことになる。
思いがけない、そして最高の形で。
そして、その日がやってきた。
そろそろ、だ。私は顔を上げる。私の立つべき舞台の幕が開く。私は行かねばならない。
ここにいることを許された者のひとりとして。頂点に立つべき者のひとりとして。
そして、彼女と競うひとり、いや、たったひとりとして。
私はゆっくりと歩き出す。
彼女は帰って来た。銀盤に。ただし、私たちのところではなく、彼女の父親の故国の
旗の下に。
それは少なからぬ動揺と衝撃だった。そして、あの時私を罵った口が、今度は彼女に
向けて『裏切り者』『あの時の恨みを忘れてない』等と騒ぎ立てる。
でも、そんなことはない。あるはずがない。
これは別に私の思い込みではない。事実だ。あの後、もう一度東の国に旅立つ彼女を
見送りに行ったとき、私は見たのだ。
あの娘がククサを持っていたのを。
ククサは自分のためのものではない。誰かの幸せを願うものだ。
誰のため?と私は聞いた。彼女の白い頬が染まった。
大好きなひとのため。
はにかんだ微笑と一緒に帰ってきた答えだった。
そう、あの娘は見つけたのだ。幸せを願うべき人を。そして、還るのだ。その人の
ところに。
あの白樺の木で作ったカップは、遠い国で、彼女がほんとうに大切に思っている人に
手渡されるのだろう。
私は悟った。もはや、あの太陽と空は私のものではないのだと。あの国で、あの娘を
待つたった一人のひとのものなのだと。
彼女はほんとうの故郷へ帰る。そう、それだけのことだ。
彼女の復帰を聞いた時、私は泣きじゃくった。悲しかったのか、悔しかったのか、嬉し
かったのか。
たぶん、その全部だったのだろう。
私の名を呼ぶ声がする。
私はリンクへと進む。足元に白銀の光が満ち溢れる。リンクサイドには、やはりこの
場に立つことを許された、あの娘がいる。私はちょっとだけ視線を走らせる。
おひさまのようなきんいろの髪。晴れた日のそらのような青い瞳。
見てなさい。このフィンランドのハンナ・ヤルビネンはあなたに負けたりなんか
しないわ。
日本代表の北野スオミ!
いえ、勝ち負けじゃないわね。今日、ここであなたといっしょにいられること。
これこそが私が、私たちがずうっと望んできたことなのだから。
さあ、始めるわよ。
そして、
全部が終わったらまた、お話しましょう。
あのころのように、世界がお菓子とぬいぐるみでできていた日のように。
いっぱい聞かせてね。
あなたの大好きなひとのことを。
-Fin-
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