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いつものように原田明理はアルバイトを終え、家路についた。
暦の上ではあと幾日もしないうちに春と呼ばれる季節になるはずだった。にも関わらず
この街は、未だ先日の雪が地面の半分以上を覆っている。だが、この北の街で育った
原田明理にとっては、この時期はこれが当たり前、見慣れた風景だった。
そんないつもの街角、明理はいつものようにバス停の前を過ぎ、いつものようにスーパー
に入った。
冷蔵庫や部屋の様子を思い浮かべつつ明理はカゴへと品を運ぶ。やっと最近、半ば余儀
なく始めた独り暮らしの感覚がつかめてきていた。
食材を二人分買ってしまうことも、日用品を余計に買ってしまうことも、そして父親の
好物をつい買ってしまうこともなくなっていた。
ひとりであること。それが今の明理にとっての日常だった。
一人分、とはいえそれなりに重くなったカゴを下げてレジへと向かう明理の足がちょっと
止まる。途中の通路にあるスナック菓子のコーナーだった。期間限定!の文字がパッケージ
に躍るチョコレートの箱を手に取り、値段と小銭入れの中を見比べる。
家計簿の数字と「限定」の2文字の一瞬のバトルの末、チョコは買い物カゴへと収まった。
そんなこんなでかすかに重量を増したカゴを下げて歩き出そうとする明理はまた立ち止まる。
「ん?」
視線だった。明理は気配のした方向に向き直る。そこにいたのは小さな女の子だった。
年齢は5歳は超えていないようだ。髪の毛を頭の両側でウサギの耳のようにまとめている。
この年代の子にしては少しほっそりしているような感じだ。そのせいか、大きめに見える
目を明理に向けている。
「なあに?」
とりあえず明理は声をかけてみる。少女は明理の顔をじっと見ている。どこかで見たこと
があるような気がするのだが、すぐには思い出せない。
「おかあさんは?」
今度は顔を伏せる。
「どうかした?」
次にかけた明理の言葉にはじかれるように少女は駆け出した。
「あ・・・」
少女は棚の向こう、もう一度何か言おうとした明理の視界の外へと消えた。
明理は少女を気にしつつもまた歩き出す。彼女が今なすべきことは買い物カゴの中の卵
と牛乳とキャベツと挽肉その他をレジに持っていく事だった。
長くなり始めた、とはいえ日はとうに落ちている。明理はいつものように、街灯に照らされた
いくつかの角を曲がる。
「・・・」
いつもと変わらない道なのにきょうに限ってどうも落ち着かない。明理は時々立ち止まり、
後ろを振り向く。そこには夜道があるだけ、のはずだ。
「気のせい、気のせい」
なのに、何かが後をつけてきている。そんな感覚がつきまとっていた。明理のそんな不安を
見透かしたのか、一台のミニパトが赤色灯で路地を照らしながらゆっくりと巡回していく。
暗がりでよく見えないが、助手席の婦警もあたりに注意を払っているような感じだった。
「気のせい気のせい気のせい気のせい気のせい気のせい」
自宅まではあと100メートルほどだ。明理が小走りになろうとしたちょうどその時
ポン
「きゃああああああああ気のせい気のせい気のせい気のせい」
「・・・ちょ、ちょっとちょっと!どうしたんだい!」
肩を叩いたほう叩かれたほう、双方が仰天する。
「あ・・・すいません・・・こ、こんばんわ」
近所の顔見知りのおばさんだった。
「おどかしちゃったかね。すまなかったね」
「は、はい。ちょっとびっくりしました。えっと、今パトカーとか見ちゃったもんだか
ら・・何かあったんですか?」
「さあ、よくわからないんだけどさっきからウロウロしてるんだよ。警察がさ。だもんで
ちょっと様子見にね」
「そうなんですか」
「最近ぶっそうだからね。明理ちゃんも気をつけな。特に独り暮らしなんだから」
「はい・・・でもウチに入っても盗ってくものないですから、きっと平気ですよ」
「あら。そんな事言って油断してると、明理ちゃんが持っていかれちゃうわよ。
あんまり可愛いからっていうんで!」
「え、えええええええ、そそそそそそんな」
明理の顔がいっぺんに真っ赤になる。
「うふふふ、まあ、気をつけるのに越したことはないさ。嫁入り前に何かあったらお父
さんお母さんに申し訳が立たないだろ」
「・・・そ、そうですね・・・。戸締りはちゃんとします」
「それがいいね。でも明理ちゃんもひとりで大変だねぇ。こんな時、寂しくないかい?」
「いえ・・・もう慣れましたから」
「そうかい・・・じゃ、寒くなってきたんであたしも戻るからさ」
おばさんはそう言うと自分の家の方に消えていった。明理も大きく息をすると、冬だと
いうのに火照った顔で、また我が家に向かう道を歩き始めた。
街の片隅の小さな長屋、明理は彼女が人生の大半を過ごしてきた家に戻った。郊外のためか
街中よりも雪が多く残っている。それでも日向になる部分の雪はだいぶ薄くなり、また屋根に
永らく積もり固まっていた雪も、少しづつ落ち始めていた。
明理は玄関脇の郵便受けをチェックする。公共料金の引き落とし通知が何通か。明理の表情が
少しだけ曇る。
「今日も、なし、か・・・」
鍵を開け、部屋に入り、電灯のスイッチを入れる。部屋に光が満ちる。けれど空気はひんやりと
していた。
ずっと明理と共にここをあたたかく満たしてくれていたひとたちは、2人とも思い出の中
に行ってしまっていた。明理は手袋を外すと、まず線香を灯す。そうして手を合わながら
2つの位牌に声をかける。
「ただいま」
声は静かに響く。それは1人きり、という事実をより冷徹に告げるかのようだった。
そうして両親への挨拶をすませると、明理はかじかみ始めた手で暖房を入れ、部屋着へ
と着替える。そして軽く伸びをすると、ちゃぶ台兼用のこたつの電源を入れてもぐりこんだ。
暖まり始めた体からようやく緊張感が抜ける。
「ふう」
息を吐き出し、ちょっとぼんやりする。見るともなしに見る視線の先には先ほど着替え
の時に外した父親の形見の金のペンダントが、そして薄い冊子が何冊か。タイトルは
『東京遊び場ガイド』『見る 遊ぶ 東京』『東京スポットガイド』、そんな似たよったりの
ガイドブックと、いくつかの調理専門学校のパンフレット。
「東京・・・かあ」
そこは「あの人」のいる街だった。
その夏、たったひとりの肉親だった父親の死に立会ってくれ、哀しみに沈む明理を支え、
そのあとも電話や手紙で明理を励ましてくれたあの人。
そしてあの冬の日、口付けと、そして未来への約束を交わてくれたあの人。あの人は今、
遠く離れた東京の空の下にいた。
正直、この街にそれほど未練があるわけではない。嫌いというわけではなかったが、特に
親しい友人がいるわけでもないし、両親と過ごした事以外の思い出がそれほどあるわけで
もなかった。だが、自分の道を歩き始めたばかりの彼に負担をかけるわけにはいかない。
当初の目標だった高校の卒業は何とか果たせそうだったし、今のバイトもまだ続けられそ
うだった。
明理は携帯電話のカタログを引き寄せ、開いてみる。連絡が取り辛くなるかもしれない
から、できたら、と勧められていた。でも、まだ手紙と電話だけでいいと言った。
急がなくても、彼はいつか約束を果たしてくれるだろう。そう考えること、待つことが
今は楽しかった。
だから、もうしばらくこの街で、この家でゆっくり過ごそう。それが今の明理の答え
だった。
そのはずだ。
そのはずなのに。自分自身にいつもまとわりつくこの違和感は何なのだろう。
そんなとりとめものない考えに割り込んでくる生理的要求。すなわち空腹。まず何をする
にしても夕食をすませなくてはいけないようだった。明理は先ほどの買い物袋を下げて
台所に向かおう、としたその時だった。
「!」
庭に面した窓の外、何かの影がよぎったような気がした。
「気・・・気のせい気のせい・・・」
それが希望的観測でしかないことを、日陰に残っていた雪を踏みつける音が知らせる。
その音は玄関に近づいているようだ。
明理はごくり、と唾をのむ。まさか・・・。どこかに隠れようか?いや、それでは逃げ
場がなくなる。家の構造上、逃げるには玄関を通らなくてはいけないのだ。
「ようし。こうなったらっ!」
覚悟を決めた明理は何か身を守れそうな物を探す。手に持つスーパーのビニール袋。中に
あるのは卵と挽肉、牛乳、そして。
「こ、これっ!」
玄関の前で足音が止まる。明理は意を決し、とっさに手にした防具を構えドアノブに手を
かける。そして、目をつぶり、深呼吸と共に開けた!
人の気配と冷えた外気。明理は叫ぶ。
「あ、あのっ。あのあのあのっ。うちにはお金ありませんっ!ええとあたし可愛くあり
ませんっ!ですからお帰りくださいっ!」
「・・・きゃべつ?」
キャベツを正眼に構えた明理の足元の方から声がする。明理はおそるおそる目を開けた。
「・・・え?」