私は迷っていた。
行くべき道をなくしていた。
まるで、まっくらな世界を歩いているように。
私は懸命に探していた。
ともしびを
「ふう」
更衣室から事務室に戻った私は、一息つくとほどいた髪のもつれを直した。
「あ、明理ちゃん、今日のバイトは上がり?」
庶務のお姉さんがパソコンから顔を上げて声をかけてくれる。
「あ、はい」
応える私の顔を、お姉さんがちょっとだけ意地悪に覗きこむ。
「さっきは大変だったんですってー?外人さんのお相手で」
「あ、え、いえっ…そのっ!」
先ほどのできごとが、熱になって頬を上ってくる。
同い年くらいの金髪の女のお客さんだった。
そのきれいな外人さんの前に立った瞬間、私は何と言ったらいいのかわからなくなって
しまい、つい「コンニチーワ」などと言ってしまったのだ。
その女の人がまたりゅうちょうな日本語で「こんにちは」と返してきたものだからもう、
店中が笑いの渦だった。
「だって…あんなに日本語が上手だなんて思いませんでしたから…」
私は言い訳しつつ下を向いてしまう。お姉さんの笑顔が優しくなる。
「うふふふ。でも、みんな明理ちゃんが元気になったみたいでよかった、
って言ってたわよ」
胸にちょっとだけ刺さるとげ。私は気付かれないようにそれを抜く。
「…はい。あんまりシュンとしてても、天国のお父さん喜ばないと思いますし…」
ほんとうはまだそんなに元気じゃない。けれど、こうやって心配してくれる人の前では
笑顔でいよう、それがあの時お世話になったひとたちへの何よりの恩返しだ、と私は
思っていた。
「お先に失礼しまーす」
『原田明理』と書かれたタイムカードを押すと、「お疲れさま」の声を聞きながら、私は
バイト先の菓子店をあとにし、もうすぐ夕焼けになりそうな帯広の街を、道行く人たちの
間を通り抜けながら家路につく。恋人同士らしい人たちと時おりすれ違う。ちょっとだけ
うらやましくなる。
私にもあんな人がいたらな…たとえば東京から旅行にきた人と恋に落ちる、なんて
ちょっと素敵かも。
…でも、そんなお話みたいなことあるわけないもんね。私は私を笑った。
そして、短い秋が訪れた街を誰も待つ人のいない家に向かって足を速めた。
私は迷っていた。
旅は人生を変えることがあるという。
たとえば、旅先で生涯の伴侶を見つけたり。
私はずっと旅をしている。けれど、何も変わっていない。
そして、帰るべきところすら見失っている。
「あの…」
「は、はいっ!?」
私はいきなり声をかけられた。帰り道、いつも通る緑ヶ丘公園のグリーンパークだった。
びっくりして振り向くと、そこには先ほどお店に来てくれた外人さんがいた。少しくせの
ある金髪、宝石のような青い瞳、手には私が包んだシュークリームの袋を持っている。
その外人さんはあたしをじっと見つめて、そして言った。
「ええと、これはナンパではありません」
「は」
私は声をかけられた時のまま二秒ほど固まる。遠くで響く犬の鳴き声を聞きながら、
私はようやく応答をひねり出すことができた。
「え、えーと、どんなご用件でしょう」
外人さんはほっとした表情になる。
「道を教えていただきたいのです」
今度は私がほっとする。何かものすごい用件だったらどうしようかとドキドキだった。
「あ、はい。いいですよ。どちらですか?」
「ここなのですが」
渡されたメモ用紙は、近所のビジネスホテルのものだった。
「ああ、ここですか。帰り道の途中ですからご案内しますよ」
「はい。ありがとうございます!」
外人さんが大きく息を吐いた。知らない国の知らない街で道に迷っていたのでは無理も
ないだろう。私だったら野宿することになったかもしれない。
「じゃ、行きましょうか。もうすぐ暗くなりますし」
「はい」
私は外人さんを促して歩き始めた。
「いきなりお呼び止めして申し訳ありませんでした。見たことのある人が通ったもの
ですから」
私の横に並んだ外人さんが軽く頭を下げながら言った。
「あまりに広い公園なので、どちらに行けばいいかわからなくなってしまったのです」
なるほど。
「この公園は私もよく来るんですけど、たまに出口間違えたりしますから」
「そうですか。私だけがドジではないことがわかってちょっと安心しました」
「ははは…」
私が力の抜けた笑みを浮かべると彼女も口元にほほえみを浮かべる。
あれ?
…ううん…私の気のせいよね。
私は『あれ?』をとりあえず押し込める。
「でも日本語、お上手ですよね。失礼ですが、どちらの国のお方ですか?」
あまり根掘り葉掘り聞くのも、とは思うのだが、好奇心はどうにも抑えきれない。
「はい…フィンランドです。叔母の用事で一週間くらい滞在することになっています」
きれいな人だ。
お店で見たときの第一印象もそうだったのだけれど、こうやって近くで見ると、ほんとう
に絵本から抜け出した妖精のようだ。
「わぁ、フィンランドですか。サンタクロースとかムーミンの国ですよね」
「はい。よくご存知ですね」
妖精さんはまた、形のいい口元でほほえむ。
「あ…はい」
さっきの『あれ?』が、今度ははっきりと感じられる。
瞳だ。私を、いや、何も観ていない、そしてどこかで見覚えのあるまなざし。
それから私たちは少しの間、無言で歩く。陽が傾いたためか、空気が少し冷えたような
気がする。それをいくらかでもまぎらわそうと、私は話題を探す。
フィンランド…この間どっかで…あ、そういえば
「あのう…フィンランドのことでおうかがいしていいですか?」
「はい…わかることでしたら」
「えっとそのう、『往復ビンタ』ってお菓子をご存知ですか」
レシピ集を見て、ちょっと気になっていたのだ。
「往復ビンタ…ですか?」
妖精さんが不思議そうな表情になる。
「何でもシナモンを使ったパンみたいなお菓子らしいんですけど」
そう付け加えると、妖精さんは、ああ、という顔になる。
「それはkorvapuustitですね」
「かるば…ぷー?」
なんだか魔法の呪文みたいな言葉が妖精さんの口から飛び出した。
「イースターのお祭の時に作るpulla…パンです。『つぶれた耳』という意味があるの
です」
「だから『往復ビンタ』なんですね。面白いです」
妖精さんがうれしそうな表情になる。私もちょっとうれしくなる。
「イースターの季節になると、各家庭で作られます。私の家でも母がよく作ってくれ
ました」
「お母さんが…ですか。いいですね」
「はい!私の母は料理やお菓子作りがとても上手なのです」
妖精さんが、私の顔がちょっとだけ曇ったことに気付かなければいいな、などと思って
いると
「あ…このあたりは見た覚えがあります」
妖精さんがあたりを見回して言った。公園を出ていくつめかの交差点、ホテルの住所の
近くだった。
「ここからでしたら帰れると思います」
「あ、そうですか」
「案内していただいてありがとうございました。それでは、ここで」
「はい。じゃあお気をつけて」
妖精さんはぺこり、と頭を下げて挨拶をする。そして、落ち始めた夕闇の中へと消えて
いった。
私の中に、淋しげな瞳を残して。
家に帰り、父母に線香を上げ、そして自分ひとりのための夕食を作る。
いつしか慣れたそんな時間の中、あの妖精さんの瞳のことがなぜか頭を離れなかった。
なぜだろう。今日会ったばかりの人だし、また会うかどうかもわからない人なのに……
食事を終え、テレビを見ながらそんなことをぼうっと考えていると、部屋の電話が鳴った。
私はあたふたしながら受話器を取る。
「はい。原田です…あ、こんばんわ……叔母さんもお元気そうで…はい?……
いえ、そのへんはまだなにも……うーん、まず高校を出てからのことですよね…え?
…………東京…ですか?」