everlasting
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「お兄ちゃん、早くいこう!」
小柄な少女、白石果鈴が長い髪を風になびかせながら呼ぶ。俺はその笑顔を追う。
「でもいい時に来たよね。あたし、霧が晴れてるところ見るの始めてかも」
「そうだね。俺もだよ」
八月のその日、俺たちがドライブに訪れた摩周湖は、そのシンボルともいうべき
霧を脱ぎすてていた。
「これで晴れてたらもっときれいなのになあ」
この珍しい光景をもたらしたのは今朝方まで吹きすさんでいた夏の嵐だった。
台風何号だったかがこのあたりを駆け抜けていった名残の雲が未だ低く垂れ込める
灰色の空の下、俺たちは展望台へと向った。
「もう少しゆっくり歩こうよ」
「お兄ちゃんはゆっくりすぎ!」
「ははは、ごめんごめん。でも果鈴ちゃん、ほんとうに元気になったよね。
 体はその後どうなの?」
「定期検査じゃぜんぜん大丈夫だって」
「そっか、そりゃよかった。実は今日はちょっと心配だったんだ」
「え?どうして?」
「車の中、珍しくずっと眠り姫だったから」
「あ……」
果鈴は一瞬だけ表情を翳らせ、そしてまた笑顔を向けてきた。
「夕べネットしてて夜更かししちゃったんだ」
「……そっか。じゃ、心配はやめておく」
「うんっ!」
また果鈴は駆け出す。少し前まで彼女を苦しめていた病魔、それは再発の可能性を
常にはらんでいる。俺は、迷うことなくこちらに移り住んだ。
たいせつな人の傍らにいるために。共に時を過ごすために。
「うわあ、すっごい!お兄ちゃん!」
一足先に展望台に着いた果鈴が叫ぶ。その声にせかされるように登ったそこには
碧玉のように佇む湖の壮麗なパノラマが広がっていた。
「来た甲斐があったね」
「うん!お兄ちゃん、ありがとう」
展望台の上で、二人だけの時間がゆっくりと刻まれていく。やがて俺たちは今日の
ほんとうの目的地へとたどり着いた。俺は『その場所』で歩を止める。
「ねえ、ここ、覚えてる?果鈴ちゃん」
「え?なあに」
俺の呼びかけに果鈴も足を止め、側へとやってくる。
「ここがどうか……あれ……もしかして?」
「気付いた?」
「ここって、もしかしてあの時のメールの?」
「そう。俺が果鈴ちゃんに最初の写真メールを送った場所」
ざっ、と強い風が吹く。流された果鈴の髪の毛が俺の頬を軽くくすぐっていく。
「あの時と全然変わってないね」
「う……うん」
果鈴の目がまた翳る。その翳りのまま沈黙する横顔に、俺は語りかけた。
「どう……?想い出は戻ってきた?」
「!」
果鈴はこちらを向いて、大きく目を見開いた。また風が一陣吹き過ぎた。
「白石から聞いたよ。パソコンが壊れてメール全部消えちゃったんだって?」
果鈴の視線が、また湖の方に向く。
「……うん……ホームページのデータとかは何とかなったんだけどメールだけが
  どうしても…」
そう応える声は、かすかに震えている。
「想い出がなくなっちゃった、って、夜ずっと泣き通してたとか白石から聞いたよ」
「そりゃちょっとオーバー!」
果鈴がこちらを向いて口をとがらす。
「ははは。あいつの言うことだからな」
果鈴はまた湖の方に顔を向けた。
「でもね、夜眠れなかったのはほんと。お兄ちゃんと過ごしてきたことが、全部
  なくなっちゃうんじゃないか、そんな風に思えちゃって…でも、ここに来て……
  なんかわかった気がする」
「どんな風に?」
「ここに立って景色を見たら、あの時のこと、お兄ちゃんがメールをくれた時の
  ことがはっきりと思い出せたの。自分でもびっくりするくらい……
  それでわかったんだ。形は消えても、想いや心は消えないんだって」
俺はただ微笑みを向けた。それでわかってくれると思ったから。
帰ってきた微笑みは、それが間違っていないことを確信させてくれた。

「あ、あれ!」
果鈴が歓声を上げる。
雲がいつの間にか切れ、輝くような青空に大きな虹が一輪咲いていた。
果鈴が体をあずけてくる。俺はその肩をしっかりと抱き止める。
離さぬように、離れぬように。

「お兄ちゃん……」
「ん?」
「ありがとう……新しい想い出を作ってくれて」
「違うよ。二人で作った想い出だよ」
「……うん……また、作ろうね。いっぱい作ろうね…」