空に続く坂道
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冬の空は底がないように青い。例えば、今、急に地球の重力がなくなったら いつまでもいつまでも、どこまでもどこまでも上っていけるような気がする。 でも、今のあたしは駄目かもしれないな。 音がしそうなほど冷えた、2月の朝の空気の中、彼女は何故だかそう思った。 坂道を昇る自転車のペダルに力が入る。坂道を昇り切る。ちょっと視線を上げる と、空がどんどん近くなってくる。そして、手が届きそうなところまで昇ると、 坂は下りになる。また、空は遠くなっていく。彼女はちょっとまぶしそうに、 空を見上げると、また前に視線を移し、自転車のペダルを踏み始めた。そろそろ 切ろうかと思っている肩の辺りまである髪が、風にさわさわとなびいた。 彼女を乗せた自転車はやがて、彼女の職場の門に近づいていく。 「先生おはようございます」 「おはようございまーす。藤崎先生」 「おはよう」 青い学校指定のコートを羽織った高校生達の間を、彼女は軽やかに駆けていく。 彼女、藤崎詩織が母校であるこの高校の保健室に勤務するようになってから3年 目の冬の、1日が始まろうとしていた。


ひととおりの朝の事務処理が終わると、詩織は椅子に座ってオレンジ・ペコを カップに注いだ。かぐわしい香りが、束の間、部屋のかすかなクレゾール臭を打ち 消してくれる。窓から差し込む優しい日の光と、ストーブとやかんという古典的な 暖房装置の立てるかすかな音が静かな保健室の同居人だった。 「ふう」 紅茶を一口飲んで、詩織は一息付く。そこへ 「藤崎先生、いらっしゃいますか?」 声がする。 「はあい。どうぞ」 「・・すいません。頭痛のお薬を頂けますか?」 眼鏡をかけた詩織と同じ年頃の女性が入ってきた。 「あら、如月先生」 詩織の同級生で、同じ高校の国語の時間講師をしている如月未緒であった。 「いいわよ。そこの棚にあるから勝手に出して」 「ありがとう詩織ちゃ・・・じゃなくて藤崎先生」 「うふ。生徒がいない時はいいわよ。未緒ちゃん」 「うふ。そうね」 未緒はちょっと笑いながら棚から小さな錠剤を取り出して保健室の隅に設けられて いる水道の水で飲み干した。 「風邪ひいちゃったみたいなの」 「あら、気をつけなきゃ。今年の風邪、タチが悪いみたいだから」 「ほんと。早く暖かくならないかしらねえ・・・あ、そういえば」 未緒が思い出したように言う。 「春休みの旅行、どうする?彩子ちゃんは詩織ちゃんにも来て欲しいって 言ってるけど」 「うーん、どうしようかなあ。」 詩織は部屋に張ってあるカレンダーを見た。 「えっと、21日でしょう?・・」 カレンダーを一緒に目で追う未緒が 「あら?」 とちょっと意外そうな声を上げる。 「その卓上カレンダー」 「・・ああ。これ生徒が置いていったの。ファンみたいね」 その大手の生保のマーク入り卓上カレンダーの図柄は、一人のサッカー選手だった。 「今、ずいぶん人気あるみたいですね」 「うん。あのころから考えると信じらんないけどね」 詩織は、そのカレンダーで微笑む選手のポートレートから、視線を外し、窓の外を 見た。保健室からは校庭の向こうにある、一本の古木がよく見えた。伝説の樹、と 呼ばれるあの古木が。 あのころ。 詩織と未緒がまだこの高校の生徒だったころのことだ。『彼』はこの高校のサッ カー部に在籍していた。初めは目立たない、というよりも選手としては明らかに落 ちこぼれていた。それでも彼は諦めず、努力を重ね、ついにはエースストライカー として、母校をインターハイ優勝に導いた。 もちろん、そんな『彼』が女の子達の耳目を集めないはずもなく、アプローチする 女生徒も数え切れなかった。 「バレンタインデーに詩とか送っちゃったの、今になってみるとすごい恥かしい ですね」 未緒がちょっと照れくさそうに笑う。詩織も静かに微笑む。『彼』は詩織にとっては、 また、特別の意味があった。 「そういえば、詩織ちゃん、おさななじみでしたよねえ」 詩織の笑みがちょっと固くなる。 「おまけにお隣さんで、小さいころはほんとの姉弟みたいだったわ。そばにいるのが あたりまえ、みたいな感じでね」 「じゃあ、感慨もひとしおじゃないですか」 「・・・まあね」 詩織の視線が泳いで、またあの古木に移る。予鈴のチャイムが鳴った。 「あ、そろそろ行かなくちゃ。じゃ旅行考えといてくださいね」 未緒はそう言うと保健室を出ていった。 そのとき。 結局、『彼』を射止めたのは、サッカー部のマネージャーをしていた女の子 だった。伝説のあの樹の下、卒業式のその日、彼女は『彼』に愛を打ち明けた。 そして、あの樹の伝説が語るように、彼女は『彼』を支え続け、ついこの間 『彼』の社会的な地位に相応しい華やかな式を挙げた。TVのインタビュー に答える幼なじみ。よく知った顔なのに、もう自分の知っている顔じゃない。 そんな奇妙な感覚が走ったのを覚えている。 そして。 古木は、ここからだとちょうどシルエットになっている。とりとめのない 考えが浮かんでは消える。あのころのこと。あのときのこと。あの日の青い 空のこと。 「藤崎先生」 「はい?」 詩織は急激に現実に引き戻され、ちょっとあたふたした。 「すいません・・・痛み止めもらえますか?」 少女の声。 「別にいいよお」 そして少年の声。 「あんた頭が痛い、ていうから連れてきてあげたんじゃない!」 「いや、そうだけどな」 女子生徒と男子生徒が一人づつ、保健室に入ってきていた。 「はいはい。保健室では静かに!」 詩織はぱんぱん、と手を叩く。 「あ、す・すいません」 男子生徒がぺこり、と頭を下げる。悪い顔立ちではないのだが容姿に それほど気を使うタイプではないらしく、必要最低限の身だしなみ以上の 事はしていないようだ。しかしそれがかえって、ストレートな少年っぽい 魅力を彼に与えていた。 「まったく藤崎先生には弱いのよねー」 女子生徒の方がにやにやしながらひやかす。ちょっとクセのある髪の毛を 無造作に後ろで束ねている。顔の造作は、童顔、といっていい。太目の眉毛と 悪戯盛りの小猫のような瞳が印象的で、見る者に機敏な小動物のような印象を 与える美少女だった。少女は芦谷あゆみ、少年は向井友朗であった。同級生 なのに姉弟、みたいにしか見えないのは、この年頃ではしょうがないことかも しれない。 「ま、藤崎先生に会えたんだからいっか。」 友朗が笑った。 「調子こかないのっ!」 あゆみが友朗の頭を小突く。 「いってぇ!殴る事ねえだろ」 「ほらほら。女の子にムキになってどうするの」 また騒ぎが起きそうなのを、詩織の笑みが割って入る。 「せんせーもあゆみの味方なんすかあ?」 「だって女同士、だもんねー。あたしなんかねー、先生のおうちに何回か上げて もらってるのよー」 あゆみが小悪魔のような表情を作る。以前、詩織の趣味であるクラシックのCD コーナーで、ばったりでくわしてから、何回かあゆみは詩織の部屋にCDを借り に来てたのであった。 「あーいーなー。今度俺も俺も」 「何言ってるのよ。あんたなんかあぶなくって先生の家に上げらんないわよ!」 「どーゆう意味だよ」 また、だんだん声が大きくなる二人。 「警告。10秒以内に静かにならない場合は、退室を命じますよ」 詩織は、わざとらしく手を組んで言った。 「あ、すすすいません」 二人が、大急ぎでよそ行きの顔になった。 「で、頭痛なの?まあ、大切な時期だし、一応お薬を出すわ。」 二人とも卒業を間近に控えた3年生だった。 「日がな一日、コンピュータの画面見てりゃあねえ」 「お前だっておんなじじゃん」 「あんたとは鍛え方が違うのー」 友朗は元々、それほど頑健、というわけではなかったようで、ちょくちょくここを 訪れるいわば常連であった。そんな時はたいがいクラス委員のあゆみが付き添って くるのだった。二人は部活の電脳部もいっしょで、放課後に基板で手を切っただの で訪れる時も、連れ立ってくる事があった。 「ふたりとも、もう進路は決まったのよね」 詩織は薬箱を開けながら言った。 「そそそそ、こいつと一緒の大学なんですよー。やんなっちゃう」 「あらあら。」 二人の行く予定の大学は、ここからほど近い町にあった。 「それはこっちもいっしょだ」 友朗がふて腐れたように言う。 詩織はくすり、と笑う。多分この子達は、今人生の一番輝かしい時間を生きている のだろう。こういう仕事をしていると自分もその頃に戻れるような気がする事が ある。しかし、今は 「さあ、授業が始まるわよ。もう行きなさい」 「あ、はーい」 自分は、今、その輝かしい時間を送っている子供たちを見守るのが仕事だ。 そう。終った時間はもう戻せない。 ぱたぱたと賑やかに出て行く二人を見ながら、詩織はちょっと目を細めた。 「・・・」 詩織が何かに想いを馳せようとする。その時、また保健室のドアが開く。 「・・・・ハァイ。グッモーニーーーーン」 女性の声だ。 「あ、おはよう。片桐先生。・・・彩子ちゃん・・えっと胃の薬ね」 「・・ザッツライト。さすがねー。いやーちょっと友達と飲みに入った先で隣の 席の男の子達ともりあがちゃってさー」 やはり詩織の同級生で、美術と音楽の時間講師をしている片桐彩子だった。 「まったく、ほどほどにしときなさいよ。若くないんだから」 「ノーノーノー。なぁに言ってるの。まだまだ青春まっさかりじゃない」 「まあ」 詩織は胃の薬を手渡した。 「サンクス。あーでもやっぱちょっとキツいわねー。このごろ・・・あ、そうだ・ ・・ね、」 「なぁに?」 「さっきの子、向井くんでしょ?」 「うん。そうよ。どうかした?」 「あの子さ、高校出たら留学するらしいわよ」 「え?何で」 「あっちにウチの学園の姉妹校、っていうか分校あるでしょ。あそこのコンピュータ 関係の学科に特待生みたいな感じで行くらしいわよ」 「へえ。でもあっちのそれ関係の学科ってかなりレベル高いんじゃなかった?」 「ほら、何か聞いた事ない?世界中の学生がインターネットで独自のOS開発 したって 話」 詩織もそれは雑誌だったか新聞だったかで読んだ。 「彼、それの日本での参加者で、中心の一人だったって話」 「へえ」 そちらの方面で優秀だ、というのは聞いていのだが、それほどまでとは思わなかった。 「こないだ、伊集院君・・・じゃなかった理事長が来たわよね。あの時が面接だったん だって」 「それにしてもすごいチャンスじゃない」 日本の学園法人の傘下とはいえ、シリコンヴァレーで一目置かれる技術者を輩出している 学園だった。 「そう。彼も結構乗り気みたいよー。それで色々聞かれたわ」 そこまで言うと思い出したように、彩子はコップの水で薬を飲み下した。 片桐彩子は卒業後、何年かフランス留学をして絵の勉強をしている。ただ、 そっちの世界も食べていくようになれるまでは大変らしく、バイトがわりにここ の講師をしているのだ。 「そうなの。そんなこと全然知らなかったわ」 「言い出しにくいかもね。あたしもそうだったから」 「ふーん」 「じゃあサンキュー。また後でね」 彩子は保健室を出て行く。ぱたん、と戸が閉まる。また保健室に静寂が戻った。 「・・・・色々あるものよね」 詩織がそう語りかけた窓の外の古木は何も答えてはくれなかった。