タイトル:美少女ゲームはプラモデルである、と言ってみる。 |
作成日:2006年08月31日 |
カテゴリ:[VideoGame] |
コメント:11 |
調べもせずに適当に書いてみるよシリーズ
美少女ゲームは「ゲーム」なのか(ITmedi)
美少女ゲーム(というかノベル系列のゲーム)と映画や小説、コミックといった従来型の物語系コンテンツとの最大の差異は何か。たいがいののゲームに(それが申し訳程度であっても)用意されている選択肢によるストーリーを制御機能、というのは、まず第一に挙げられよう。
じゃあ上でも挙げられている『ひぐらしのなく頃に』はどうなのよ、という話が出てくると思う。一見選択肢を排除し、ゲームであることを放棄している間のある『ひぐらし〜』であるが、これだって実は従来型のコンテンツと決定的に異なる、ノベル系ゲーム特有のシステムが含まれているのだ。
それは何か、というと「巻き戻し」はできるが「飛ばし見」ができないということ。
書籍であれば途中を飛ばして結末を読んでから中を読むということもできるし、ビデオやDVDであれば早送りして先を見ることもできる。映画は劇場で見れば、飛ばし見はできないけれど、見逃したシーンをもう一度見るということもできない。
だが、ゲームの場合はいかに一本道のシナリオであっても、プレイヤーは、バックログ(あるいはロード)での読み返しをすることはできるが、話の先に関しては順を追っていくしかない。
この「順を追う」という構造がもたらすカタルシスこそが、実はノベル系ゲームの「ゲーム」としての本質なんじゃなかろうか。「完成された物語」を観賞していくのではなく、マウスクリック(あるいはスペースバー連打)によって物語を組み立てていく快感とでも言うべきもの、それはプラスチックモデルキット、いわゆるプラモデルの楽しみに似てるかもしれない。
プラモデルの楽しみというのは完成品を手に入れる、ということもさることながら、パーツを組み付けて少しづつ形にしていくという過程そのものが大きな部分を占める。デカールやボーナスパーツといったオプションによってカスタマイズできるのであれば、さらに組み立てる楽しみは大きくなる。それと同じように、ノベルゲームというのは、物語を自分の手で完成させること自体に楽しみがある。そこにマルチシナリオというオプションパーツが豊富に用意されていれば、それに勝るものはない。
そしてそれは、他の大半のビデオゲーム、たとえば、好みの武将で天下布武をしたり寄り道をしながら魔王を倒したり、色んなものを塊にする、といった従来のゲームと、「自分自身の手で何かを完遂する」という点において、本質的にはそれほど差異があるとは思えないのだがどんなもんだろう。「完成品」の自由度においてレゴブロックかプラモデルか、という違いはあるかもしれないが。
しかしこの手の話を見るたんびに思うんだけど、そもそも「ゲーム性」ってもんに明確な定義が与えられていないのに、それの多寡や有無を論じる、てのはどうなんだ。勝手に「いわゆる」されてもなあ。動物化先生もここまで語るんなら明確にゲーム性の基準くらい上げておくれよ。『スーパーマリオブラザーズ』を100としたら『ひぐらしのなく頃に』は0.413とか(根拠なし)。
ところで、個人的に『ひぐらしのなく頃に』MMO説というのを提唱したいがどんなもんか。
お久しぶりです。
早送り「する/しない」といった自由選択ではなく、
商品の性質上「できない」ことになっているノベルゲーはたしかに特殊ですね。
私はジグソーパズルの仲間だと思っています。
・自分の手でピースをはめないとエンディングが保証されない(≠映画)
・ピースをはめていく順序に、いくらかの自由度がある(≠小説・映画)
・途中経過を眺めるのがそれはそれで楽しい
言葉でいうのは難しいのですが、
娯楽を享受してるというより、積極的に堪能しようとしている、
といったイメージです。
ゲーム性というのは「競技性(ルールに従ってコンテンツのスコアを競う)」「操縦性(プレイヤーの操作によってコンテンツが反応)」「攻略性(コンテンツの鍵や謎を解き明かす)」といったところであると、私は解釈しています。
そういった意味では、ノベルタイプのゲームというのは、あえてほとんどインタラクティブなゲーム性を捨てて読み物に徹している、しかし、「ゲーム」です。
ノベルゲームをゲームたらしめているのは、ご指摘の通り「読み進めなければ実体がわからないが、その読み進める(物語を組み立てる)行為自体を遊びとして楽しめる」という点です。
私は『ひぐらし〜』をプレイしていないのですが、聞いた限りで判断いたしますと、つまりこれは「順次提供されるコンテンツに含まれた限られた情報から物語の実体を解き明かす」「皆で真相について語り合う」というところがまさにゲーム攻略になっているのではないでしょうか。
とすれば、「ゲーム中に選択肢がない」ことなど、瑣末なことなのでしょう。
もしかすると、「独りで、攻略本がないと解けないゲームをやる」よりも、「物語を見て、皆でよってたかってそのお話の解釈を考える」ほうが、ゲーム性が高い、のかもしれません。うーん。なんかフシギですね。
>明確にゲーム性の基準くらい上げておくれよ
この記事はまさしく「『美少女ゲームなんかゲームじゃない説』批評」であって、「『ゲームじゃない』というなら(≒『ひぐらしはゲームとして劣るもの』≒『ゲーム製作者として、作るのがかっこよくないもの』、などと主張するなら)ゲーム性の基準を上げてからにしなさいよ。ほら、わかんないでしょ。そこを考えてから文句いいなさいよ。」というのが、意図だと思います。
その意図に基づいて、「いわゆる」と言ったり、基準を明確にしない、というのは正しい戦略な気がします。
ふむー。
ゲームには「目標を達成できない可能性」が常に必要だと思ったのです。
ノベル系ゲームでも選択肢がありゃあゲームになるんじゃないでしょうか。
達成感がありゃゲームでしょう。
でも、美少女ゲームの主たるものは美少女であってゲームではないと思うのです。
ゲームとして面白くても関連商品が売れたりしないのです。
欲しいのは脳に入れて心地よいキャラなのです。
正味な話、そんなキャラになってみたいのです。
あとアレなのです。
全然関係ないですが、むかしベーマガでやってた読者参加型小説は実にゲーム的だったと思うのです。
作った奴が「これはゲーム」と言えばそれは「ゲーム」で良いと思っているクチなのですが、明確に定義したいなら、狭義のゲームでないけど広義のゲームなんじゃないでしょうか。コスティキャンじゃないですけど。
ノベル系、とりわけユーザーの操作がシナリオの絡みや変節に影響するチュンタイプでないものの内容を見ると「ノベル系ってコストパフォーマンス悪くね?」というのの方が気になります。
どうも。例によって絶賛放置中申し訳ありません。ぼちぼちとコメ返しさせていただきますです。
>あるん様
小説との流れで言うと、昔あった事件編と解決編を分載する形式の推理小説なんてのは多分にゲーム的だったと思います。
確かにコントロール量というのは一種の目安になるのかと思います。
>ner様
こちらこそご無沙汰しております。
ジグソーパズル的というのも、確かにありますね。ただパズルの場合はオプションによる自由度が存在しないのが、ややゲームとは異質かなという気がします。確かに遊ばれ方としては近い気がしますが。
レス続き。順不同というか前後から挟撃というか。
>島国大和様
面倒な攻略いらずでゲーム的な萌えが得られる、という観点からすると対価格ではなく対時間のコストパフォーマンスは案外いいんじゃなかろうか、など思うんですがいかがでしょう。
ほら、苦労しても攻略不能だった、とかどんながんばってもヒロインにエロシーンなかった、とかそんなこともないし。
>通りすがり様
基本的に美少女ゲームはキャラクター商品の側面がありますからそちらに比重がかかるのもある程度やむなしかな、とは思います。そういう意味で一種の擬似恋愛みたいな感情が生まれればそれはそれでゲームとして成立するのかなあという気がします。
読者参加型小説は系統としては、テーブルトーク型のRPGだったような気がします。
>Diska様
なんと!この海のリハクの目をしても見抜けなかった!
というかこのお題で東先生を呼ぶのがそもそもどうよって思うんですが。
>kitaros様
最後にちょっと書いた「ひぐらし=MMO説」というのはそういう部分ですね。プレイヤー間のコミュニケーションがコアにあって、コンテンツ本体はその素材を提供するといった形というのはMMOの構造というか遊ばれ方に非常に近いと思います。
この部分を本気でビジネスモデル化できれば、ノベルゲームの新しい可能性が見えてくるんじゃないかなあ、と思っています。
あえて、コスティキャンなどを無視して
ゲーム=遊び=みんなでわいわいやる物、
と考えると、スタンドアロン機のゲームより
ゲーム性は高いと言えなくもないかな、と。
競技性、操縦性、攻略性、操縦性、攻略性、等は
みんなでわいわいやる事の手段であり、下位であり、従であると。
もちろん、ネットの発達がかなり重要なファクターであり、
「同級生」の頃は単なるスタンドアロンであり、
それ故ゲーム性が今の物より濃かったわけで。
ドラクエなんか、誰かの家で誰かがやるのを
みんながわいわい言いながら(口出しながら)
眺めたり、とか言う遊び方してたなぁ。
「順を追う」だけを強調すると、連載マンガや連載小説はどうだ、って話になっちゃいそうな気も。ああ、テレビ放映のアニメもドラマも、ですか。
切り抜きしたり録画したりして、あとから「ああこの話の全体像は実は」とかいう読み方・見方をしたら、ゲーム的??
(いや、きむらさんがそういうおつもりで書いてるのじゃないことはわかりますが)
やっぱりメインは「自分が」ってところなんじゃないかしら。
プレイヤーキャラがどうとか、そういうことじゃなくて、「自分が流れを決めるんだ」(たとえそれがクリックのタイミングだけであっても)というあたり・・かな。
映画館での映画視聴との違いは、巻き戻しの有無より、スピード調整の可否かもしれません。
そういう意味じゃマルチエンディングであることも「ゲーム的であること」の要因の重要な一部なのかも。自分の好きな終わり方を「自分が」決められるという意味で。(スピード調整だけだと、マンガや小説もページをめくるスピードはそれぞれですからね)
「自分が」ポイントの総計が、ある値を越えたところから「ゲーム」と意識されるようになる、ってな仮説はいかがでしょ?w
そういや、「青」と「赤」のある小説(冷静と情熱の〜)を見たとき、「なんかゲーム的だなぁ」と思っちゃったんですよねー 同じ流れでも「自分の好きな視点で見ていいよ」みたいなところが、なんとなく。(さすがにマルチエンディングじゃありませんがw)